Tuesday 28 February 2023

The meaning of life that never returns. From 17 Professor MOMOSE. Papa Wonderful 1999. Translated by Google

  

The meaning of life that never returns

 I haven't seen my teacher in a long time. I would love to hear about how he had spent so many years editing and completing the big books without any hard problems. Someday I would creak up the old stairs again, at a coffee shop that was called "California".  I would have just a cup of tea, I would like to hear not about the Invader game, which he might have been really serious about at the time. Over a drink, I would like hear his stories intimately about the voices of people who have passed away and the meaning of life that never returns, without phonology or semantics.


Reprint
1 March 2023
Tokyo
HW HillsWest

Meaning of unreturnable life. From 17 Professor MOMOSE. Papa Wonderful 1999

 

 もどることのない人生の意味

  先生とはそれからもう久しくお会いしていません。長い年月をかけて無事大書を編集・完結なさったことなどをゆっくりお聞きしたい気持です。いつかまたあの古ぼけた階段をぎしぎしと上って、たしか「カルフォルニア」という名前であった喫茶店で、当時先生がもしかしたらほんとうに真剣であったかもしれないインベーダーゲームのことではなく、ただ一杯のお茶を飲みながら、音韻論や意味論でもない、すでに亡くなったやさしい人々の声音と、もどることのない人生の意味について、先生から親しく教えていただきたいと思っています。

17 Professor MOMOSE.From Papa Wonderful

 17 百瀬先生


 百瀬先生は言語学の先生です。田所さんは百瀬先生から、二十代の学生のときにはロシア語を、三十代の聴講生のときには言語学を、教えてもらいました。失礼な言い方かもしれませんが、長いお付き合いということになります。その年月の間に、田所さんが年を取った分だけ百瀬先生も年をとりました。先生と田所さんは十歳くらいしか年がはなれていません。田所さんが大学三年でロシア語を学んだとき、百瀬先生はまだ三十代のはじめだったはずです。

 先生は教室にはいってくるときよくスポーツ新聞を持っていました。先生がどこの野球チームのファンであったかもう忘れましたが、先生のひいきのチームが勝ったときは、なんとなく楽しそうな始まり方をしました。

 三十代で聴講生であったとき、毎年のように先生の言語学を聴いていましたが、年度の初めに教室で先生にお会いすると、「田所君、もう来なくてもいいんじゃない」とよく言われたことをおぼえています。

 言語学の細かい内容の多くはもう忘れてしまいましたが、それでもいくつかは鮮明におぼえています。ひとつはカルツェフスキーの「言語記号の非対称的二重性」の話、もうひとつは「プラハ言語学サークル」の存在です。それらの内実についての田所さんの感嘆は、ことばのようなとりとめもないものに対してよくそんなに理論を積み重ねていくことができるものだということでした。

 カルツェフスキーの話は、ことばというものがいかに柔軟なものであるかということを田所さんに教えました。またプラハ言語学サークルは、歴史が進行するなかで、ひとつの存在がいかに歴史のもたらす埋没性に抵抗できるかを、田所さんに教えました。プラハ言語学サークルは、第二次世界大戦後、構造主義の名の下に大きく世界に広がりました。構造言語学、とりわけ音素の二項対立、構造主義人類学への発展、数学におけるブルバキ集団、ヤーコブソンとレヴィ・ストロースとのニューヨークでの出会い、トゥルベッコイの音韻論。どのひとつをとっても、めくるめくような理性の営みでした。

 百瀬先生は、ことばが、ひいては考えることの柔軟さが、いかなるときにももっとも大切なもののひとつであることを、いつもていねいにさまざまな例を引きながら教えてくださいました。

 先生とはそれからもう久しくお会いしていません。長い年月をかけて無事大書を編集・完結なさったことなどをゆっくりお聞きしたい気持です。いつかまたあの古ぼけた階段をぎしぎしと上って、たしか「カルフォルニア」という名前であった喫茶店で、当時先生がもしかしたらほんとうに真剣であったかもしれないインベーダーゲームのことではなく、ただ一杯のお茶を飲みながら、音韻論や意味論でもない、すでに亡くなったやさしい人々の声音と、もどることのない人生の意味について、先生から親しく教えていただきたいと思っています。

Papa Wonderful

 

Papa Wonderful


すてきなおとうさん

01 はじまり

 「すてきなおとうさん」田所弘平さんは実在の人ではありません。しかしいちばん近いモデルはというと、それは著者自身ということになります。

 ほんとうは架空の人として描きたかったのですが、そのような人として描ききる力が著者にはありませんでしたので、いちばん身近な著者自身をモデルにしてしまったのです。

 著者は1947年に東京の西郊に生まれ、そこで育ちました。ですからここに書かれていることは、著者が生きた時代にその時代の中で見た真実ということになるかもしれません。ひとりよがりや架空のことも含めて、ここに書かれていることは著者がこうありたいと心のどこかで願っていたことなのです。

 著者は小さいころ、姉が読んでいた少女雑誌の付録で、マンガの『若草物語』を読みました。その読後感はほんとうになんともいえないあたたかなものでした。なにしろ半世紀近くたった今になっても、そのいくつかの場面をはっきりとおぼえているくらいなのですから。この物語を読んでくださるあなたが、もしお子さんをお持ちのおとうさん・おかあさんでしたら、どうかマンガだといって、それだけでその作品を否定しないでください。すべては表現と感受の問題で、それが何によってなされるかではないからです。

 ですからこの物語は、半世紀を隔てて書かれた、少年時代に読んだマンガの『若草物語』へのひとつの頌歌、ほめうただと思ってくださってもかまいません。

 小説家、上林暁さんがかつて自らの文学的経歴を振り返りながら、実は『あしながおじさん』が大好きだったと述べておられるのを目にしたことがあります。この人にしてこのことばがと、なんだかほほえましく感じられました。

 文学に長じた上林さんには比すべくもありませんが、この本の著者もきっと、『若草物語』が著者のささやかな文学的営みの出発点をなしていたと思えるくらいには、自己を振り返れる年齢になったのかもしれません。

02 春の雨

 春の雨ほど優しいものがあるでしょうか。寒く厳しい冬を越えて,乾燥と風の二月を越えて、三月のやわらかな風とともに春の雨はやって来ます。二月は毎日風が吹いて,窓ガラスがいつかうっすらと曇り、空の底がいつも土ぼこり色に染まって、まだ新芽の芽吹かない木々がいつまでも寒そうに風の中に立ちすくんでいます。のども鼻も乾燥し、いがらっぽく、くしゃみが出ていつだって気分がよくありません。

 一日も早く雨が降るのを待っているのは、人だけではなく、植物も同じです。スミレの類だけは大地が乾燥していても何とか元気に冬をしのいでくれますが、それでも葉をいきおいよく伸ばしていく力は、水分が十分でない二月にはまだ思うように発揮できないのです。

 そんな中でいち早く、春の準備を着々と整えているのは,沈丁花とシャクナゲです。シャクナゲはつぼみのときから花になるまで、ほんとうに長い時間を必要としますが、沈丁花はつぼみから花へとあっという間に移行します。もうすぐ、ほんとにもう少しで、沈丁花が咲くでしょう。そうすれば春です。今年も冬をなんとか生き延びたと、田所さんは大げさでなく思います。人をも含めて、生物が冬を越すのはたいへんなことなのでしょう。ですからみんなが春の雨が大地をぬらすのを待っているのです。

 そしてある日、春の雨は突然に訪れます。西脇順三郎の詩のように、ものみなすべてを優しくぬらして。春の雨はかくも優しく静かに木立や大地をうるおします。田所さんの好きな、まだ寒い山小屋のストーブと固い木の椅子の窓辺にも、この雨はきっと明るくすきとおった静けさを届けていることでしょう。

03 沈丁花

  春は沈丁花とともに訪れます。二月初旬のまだ寒さの強い日々に、沈丁花は風に負けない固いつぼみを膨らませ、やがて春を最初に告げる白い花を一斉に咲かせます。強い北風にも少しもひるむことなく、静かな午後には、居間からガラス戸を開いて外に出ようとするとき、かぐわしいかおりを部屋全体に満たすのです。こんなに人を励ましてくれる花はありません。冬を越えることはすべての生きものにとって、いつも厳しい選択を迫ります。おまえはまだ生きようとするのかと。この寒さを乗り越えていく力をおまえはまだ持っているかと。

 そうすると人を含めたすべての生き物が一瞬たじろぎ、自らのエネルギーがもう底をつきそうなことに気づくのです。そのとき窓の外の冷たい風の中に白く咲く、沈丁花の花を見つけてほっとします。もう大丈夫、春はそこまで来ているのだから。強い風も強い寒さももうまもなく消えて行くでしょう。うすぐらいどんよりとした午後の中にそこだけがまるで一条の希望のように輝いています。泰西の詩人はかつて歌いました、希望はいつも厩のわらのひとすじのように輝くのだと。

 こんなに弱ったあなたももう大丈夫です。花のかおりに包まれているならば。明日はきっと、かすかな柔らかいひざしが窓辺に一瞬訪れるでしょうから。そんなふうに沈丁花の白い花が、今日も伝えているのです。

04 丘陵

 田所さんの住む町は、丘陵の西の突端のすそ野に広がっています。さらに西のかなたには山々があおく連なっています。夕暮れに丘陵に上ると、灯がともるころの夢のような町が一望できます。その空間を、田所さんはひろびろとしていて気持いいなと思うこともありますし、それとは全く反対に、人間はなんて狭苦しい中で押し合うように生きているんだろうと思うこともあるのでした。

 田所さんは若かった十代や二十代のころ、つまり歩くエネルギーが今よりもはるかに強くあったころ、よく丘陵のいちばん上まで上り、ふだんはほんとうに静まり返っている桜の木立のある広場にまで行ってみることがありました。

 晩春の午後の、もうこれからはだれひとり訪れないひとときに、遅咲きの桜の花々が音もなく散っているのに出会うことがありました。それは田所さんにとって、幾度出会っても言いようのない不思議な経験でした。ことばで敢えて言おうとするならば、それは「できごとは一切の契機を持たないで起こり得る」というようなことでした。

 実際はそんなことではなかったでしょう。花は、周囲の風や重力やまたはなにかの微細な震動によって、きっとごく自然に散っていたのでしょう。

 しかし田所さんには、どうしてもそのようには思えませんでした。ほんとうになにごともないのに、花はただひたすら散っているように思えるのでした。

 今から思えば、それは田所さんの心の風景を映していたと言えるような気もします。青春は無契機の時間の中を無限に散り行く花々のように、完璧な費消の連続であったのかもしれません。あるいはそれを深く恐れていたと言ったほうがよいのでしょうか。

 しかし今では、もう田所さんはずっとおだやかに桜の花の散って行く風景を眺めることができるようになりました。妙さん、少し遅くなるけどあのお店で花を見て行こうよ、と言えるくらいには、生きることの充足を知ることができるようになったのかもしれません。

 以前に勝鬘経義疏という本を読んだとき、そのおしまいの方では、時間を超えて流れるもうひとつの時間のようなものの遍在について述べられていて、もしかしたら私たちの時間というものもこの地上の究極の前提条件ではないのかもしれないと思ったことがありました。

 田所さんは園芸センターで草花を見ているときの、あのおだやかでゆったりとしたひとときは、もしかしたら勝鬘経義疏に出てくる、時間を超える時間というものに近いのではないかと思ったことがありました。するとなんだかうれしい発見をしたように感じられて、いつものように妙さんに吹聴してみたくなりました。

 でもそれは考えてみれば、毎週多くの人が園芸センターで経験していることなのでした。そこで少し言い方を買えて妙さんに話しかけました。

「園芸センターは哲学的にみてもすごいところかもしれないよ」

すると夕食の支度をしている妙さんに簡単にかわされてしまいました。

「それだったら夕方のスーパーなんてもっとすごいと思うわ」

05 新しい家

 田所さん一家が、新しく家を造り越してきたのは,おととしの春三月でした。今年で三度目の春を迎えることになりました。越してきたと言っても、前に住んでいたところはそこからすぐ後ろのアパートで、ですから引越しの荷物運びも田所さんと妙さんが中心になり、子供にも手伝ってもらって、自分たちでしてしまったのです。冷蔵庫だけは重く車にも載りませんでしたから、軽トラックで運んでもらいました。テレビなどは台車を使ってごろごろと道路を運んで来ました。古いたんすが二三あったのですが、今度はクローゼットがありましたから、町の粗大ゴミとして持っていってもらいました。そんな小さな引越しでした。

 田所さんと妙さんが家をほしいと思った遠い出発点は、階段にあります。;引っ越す前に住んでいたのは、二階建てのアパートで,まだ小さかった弟の安彦くんが、ときどき、家の中に階段のあるおうちに住みたいなと、言うのです。確かにアパートは外階段です。その前に住んでいたのは三階建てのマンションで、ひさしはついていましたがやはり外階段でしたから、冬の大雪の日に兄の高彦くんが階段で足を滑らせ、帽子をかぶっていましたが、頭を打って大きなこぶを作ったことがありました。確かに階段は内側にあったほうがいいかもしれません。そんなわけで「うん、いつか階段が中にあるおうちに住もうね」というのが、二人が兄弟に交わした約束のようになっていたのです。

 ですからアパートの前の畑が造成されて,宅地になると聞いたとき,もうほとんど迷うことなく申し込みました。お金はなんとかなるでしょう。四棟の建売住宅で、その前にはまだかなり広く畑が残っていますし、静かなところでしたから、二人ともこの場所が気に入っていたのです。

 田所さんはもともとこの町に生まれました。でも今の住まいからはやや離れたところで、高彦くんが雪の日にこぶを作ったマンションはその地域にありました。それが現在の場所に越してきたのは、二人の兄弟がマンションの部屋でどんどん歩いて下の階に響くようになり、もう少し響かない住まいを探しているうちに、まったく偶然にこの場所に落ち着いたのでした。それがいつか家を持つようになったのですから,人生は不思議なものです。もしも二人の兄弟がそれこそ楚々と歩く静かな姉妹でしたら、田所さんたちはきっとここへ来ることもなく、この物語もまったくの始まりからして成立しなかったかもしれません。

 家の東隣の鍋島さんは以前からここに住んでいて、アパートの時代にも挨拶は交わしていましたが、お隣さん同士になってからはよけい会話が弾むようになりました。ご主人の鍋島さんが田所さんより少し上のほとんど同年代でしたから、暗黙のうちに話しが合うのです。鍋島さんは精密機械部品を作る会社に勤めていますし、田所さんが流通業に勤めていましたから,おたがいに最近の情報を交換したり,現代世相を適宜に嘆いたりしあうのです。しかし二人の最大の共通点は花や木が好きなことです。しかも鍋島さんはもともとは農家の出身でしたから、なんといっても植物に詳しいのです。そこで田所さんは雑談の中でいろいろと教えてもらえることを楽しみのひとつにしています。

 そもそも田所さんの小さな庭に植えた最初の庭木は、鍋島さんが育てて、かなり大きくなっていたユキヤナギでした。鍋島さんが庭からシャベルで掘ってきて垣根越しにくださったのです。それからは春の夕暮れや、夏の夕涼みがてらや、秋の落ち葉掃きに二人は顔を合わせると、季節の移ろいをめでながら、植物談義をするのでした。それでもときどきは、鍋島さんのところに入ったコンピュータの話や田所さんが耳にした新しいトラックのエンジンの話になるのは、やはり二人がまだ東洋的仙人になっていない証拠でした。

 鍋島さんの夢は年をとったら盆栽をすることでした。これはすばらしいとっておきの夢です。なぜなら鍋島さんの庭は、大変広いですから、いろいろなものがきっと配置よく置けるでしょう。田所さんの夢はきれいなバラを育てることと、みごとな落葉樹を育てることです。シャラ、ヤマボウシ、エゴの木など。願わくはご近所にあまり葉っぱが落ちませんように。田所さんは宮沢賢治の虔十林公園の話がむかしから好きでした。最近はジオノの『木を植えた男』のおはなしをその美しい挿絵とともに何回か読み返しました。

 中国には早くから寒山拾得の話が伝わっています。二人がする落ち葉掃きは、田所さんが現在思いつくどこか心なつかしい風景の極みなのでした。森鴎外が書いた「寒山拾得」のあとがきによれば、もしかしたら鴎外自身もこの二人の古僧がひとつの理想であったのかもしれません。


06 兄弟

 兄弟の名前は高彦と安彦といいます。兄の高彦くんは高校一年、弟の安彦くんは小学六年です。二人は仲がよく、二人がけんかをしたことは多分ないでしょう。二人がまだ小さかったころ、二人は共同して漫画家になるのが夢でした。兄が絵を描き弟がアシスタントになるはずでした。しかし今ではその楽しい夢はきっとほとんど消えて、ただかすかなあこがれだけが夕映えのよう残っているのかもしれません。二人ともそれぞれの人生でそれなりに現実を学んできたのです。それでもそうした共同の夢をもう一度新しい形で持とうよと、二人が今も話しているかどうか、そこまでは田所さんにもわかりません。

 漫画のほかに二人が共通して好きなものはゲームです。目にしたおもしろそうなゲームはきっと可能な限りしてきたでしょう。そうなるきっかけのひとつは二人のおとうさん、つまり田所弘平さんの影響も大きかったかもしれません。確かに田所さんは小さかったころゲームも漫画も好きでした。しかし結局彼ら二人が自らの好みを確立したのです。 

 今の田所さんは将棋では二人にかろうじて勝ちますが、囲碁はもう二人にとてもかないません。こどもの成長は驚くほど速いのです。二人の実力はここしばらくの間互いに拮抗しているようです。

 二人は今、マジック・ザ・ギャザリングというカードゲームに夢中です。田所さんはそれについてほとんど何も知りません。カードがまだ出始めのころ、カードに書いてある英語の説明を二人の求めに応じて訳してやったことが少しあっただけです。それも今では兄の高彦くんが訳して、安彦くんが耳を傾けてうなずいています。学校の英語もその意味では彼らにとってたいへん有益でした。アメリカから送られてくるカードの最新情報を、高彦くんがインターネットでページをスクロールしながら読んでいるのを眺めていますと、移り行く時代の流れを感じずにはいられません。

 土曜の夜などは安彦くんの部屋で二人して遅くまでゲームが続きます。ちょうどよい大きさの炬燵が置いてあるのです。ときどき田所さんや妙さんが二人に紅茶やミルクコーヒーを運んでいくと、「ありがと」といいながらカードを開いたり切ったりしている二人の姿は、あたたかな明かりの下でいかにも楽しそうです。二人はやはり、まだ共同の夢を追い続けているのでしょうか。 

07 ランニング

 田所さんと妙さんはときどきランニングをします。場所は家から近くのグランドまでの往復です。向こうで少しフィールドを回って,つかの間の陸上選手の気持を味わいます。グランドにはいろいろな人がやってきます。鈴木まもるさんの公園の絵本のように、ほんとうにいろいろな人が来るのです。犬と散歩する人。キャッチボールをするおとうさんとこども。乳母車でやってきて,休憩するお母さん。運送業らしい人のつかの間の昼寝。日曜日にはこどもの野球チームの練習。悠悠自適のゲートボール世代。

 田所さんと妙さんはそこでしばらく屈伸運動や、深呼吸や、ひさしぶりに見る広い空や、静かに飛んでいく鳥たちとともに過ごします。人もまた風景の一部となって存在することがときには必要なのでしょう。

 早春の柔らかい陽射しは、運動してもそれほど汗をかくこともなく、エネルギーを体の中に補充してくれます。ランニングをするときの足裏の大地の感触を田所さんはしばらく忘れていました。

 ランニングの楽しさを思い出させてくれたのは、妙さんでした。妙さんは短距離はあまり得意ではありませんが、長いゆっくりとしたランニングを会社の昼休みなどに時折走っていました。それがしばらく途絶えた後、今度は田所さんを誘って,家の近くを走りたいと言うようになったのです。家の近くには遊歩道もありますし、走っていると、多くの家々が思い思いにガーデニングの意匠を凝らし、垣根やアーチやハンギングなどの細かいところにまでいろいろな工夫をしているのに目が止まり,ほほえましくなることがあります。たとえばぶどう棚をきれいに作っている家がありますし、門をきっと自分で直したのでしょう、普通には見られない明るい褐色の化粧タイルのようなもので整えた家も発見しました。

 ランニングをしていて思い起こす一シーンが田所さんにはあります。それはもうだいぶ以前に少女マンガ雑誌に連載されていた吉田秋生さんの『カリフォルニア物語』の中で、主人公のヒースが、ニューヨークかどこかの街中をゆっくりと走る場面です。ヒースはそのときいかなる時間にも拘束されない、記録でもなんでもない、ただ走りたいから走っていることの気持ちよさを味わうのです。その一シーンがくっきりと記憶に残っています。いつだったかこの『カリフォルニア物語』には多くの愛読者がいたことを、新聞のコラムで知って、ああやはり私と同じような人がいたんだなと,田所さんは思いました。

 人はときに無理をしてまで,目的を作ってしまうことがあるのかもしれません。そうすることが必要な場合もきっとあるでしょうが、ただ自由にいてよいこともあるでしょう。ランニングはそのひとつかもしれません。ヒースの背に、街が静かに描かれていました。そうした美しい街を自分の心の表象として持ちながら走る日のことを、田所さんは想像します。決してもうヒースのように若くはなれないのですが。

08 居間

 田所さんは家に帰ると、だいたい一階の居間にいます。もっとも一階にはこの居間兼キッチンと和室しかありません。居間は14畳、和室は6畳です。和室には座卓とテレビ、それに本棚がひとつ置いてあります。居間にはいろんなものが詰まっています。田所家の頭脳のようなものです。まずまんなかに食事用のテーブルと椅子が四つ。これは家族みんなのお気に入りのものです。この新しい家に入ったとき、みんながまず第一にほしかったものが、大きなテーブルとゆったりとした椅子でした。椅子は座るところまでがまったくの木製でしたから暖かくなるまではクッションが必要です。この飴色のテーブルにはときどき庭の花が飾られます。すみれ、バラ、ラベンダー、デージー。小さな庭にも四季は確実に過ぎていきます。

 テーブルの北には出窓とキッチン。出窓にもときどき邪魔にならない細い花瓶を妙さんが置いて、小さな花やハーブの枝を挿しています。

 東側には北から冷蔵庫と食器戸棚、電子ピアノと並んでいます。冷蔵庫は昨年夏こわれたので買い換えたばかりの新しいものです。食器戸棚は結婚以来のもう幾個所にも傷のついた古いものです。その横は出窓で、そこにはドライフラワーの花束があり、MDのコンポがあり、楽譜が幾冊か置いてあります。いちばん南寄りには水槽があり、安彦くんが夏の納涼祭でもらってきた金魚が三匹と、川で釣ってきた鯉が一匹いつも元気におよいでいます。ところが金魚がだんだん大きくなって、今では鯉と同じ大きさになり、まるで緋鯉のようになっています。魚を長く飼っている人にきくと、最近の魚は餌がよく水槽の大きさに限りがあるため運動不足で肥満になっているというのです。ダイエットが魚に必要な時代になってきていることに驚きました。それを聞いてから餌を少し少なめにするようにしました。

 南側は庭に面した窓ガラスで外に出られます。外は芝生で田所さんが一年目の夏に作った青砥石の道があります。その向こうに沈丁花とシャクナゲの木が見え、そこが境で金網があり内側に紅カナメが生垣ふうに植えられています。金網の外は道路に面しています。その金網に田所さんが四季咲きのつるバラの新雪を一本植えたのが、今では南側全面にわたって枝を伸ばしています。

 居間の西側は和室になっていて、そこの四枚引戸の半分を使って本棚が置いてあります。本棚の前には始めは何もなかったのですが、今ではコンピュータが置かれ、妙さんをのぞくみんながそれぞれの形で利用しています。妙さんも休日を利用してインターネットやメールに挑戦するとだいぶ前に宣言していますが、まだ実現していません。でも夏にキャンプに行く前にその土地の情報が必要になり、インターネットですぐプリントアウトされたときはさすがに「私も早くしないと」といっていましたが、なかなか新しい料理にたやすくチャレンジするいつもの妙さんのようにはいかないでいます。

 二階は三部屋で、東から田所さんと妙さんの部屋、高彦くんの部屋、安彦くんの部屋になっています。みなそれぞれ自分の部屋がいちばんいいとおもっていますから、しあわせです。

 田所さんと妙さんの部屋には共用の机がひとつと本棚がありますが、田所さんのリースの材料が置いてあるのと東・南・北の三方の窓辺に庭で摘んだ花のドライフラワーが吊り下げてあるのが少しだけ印象的です。机は妙さんのほうがよく使っていて、田所さんはあまり使いません。田所さんは一階の和室で読んだり、床に直接座って読んだりするほうが好きなようです。自分ではときどき、福原麟太郎先生の『書斎のない家』をまねたつもりでいるようです。

 こどもの部屋はきっとどこの家も似たようなものでしょう。ただ高彦くんの部屋にはかなりの種類の草木の鉢が置かれているのが彼らしいかもしれません。

 二階からの眺めはどの部屋もよいのですが、いちばんよいのはやはり高彦君の部屋でしょう。すぐ下の道路の向こうはまだ残っている畑で農作物ももちろんありますが、花の好きな山辺さんが春から秋までずっと草花を咲かせ続けて、高彦くんの部屋はまるで彼専用の花畑を真下に見ているようなのです。いちばん西の安彦くんの部屋からは、彼の大好きなシャラの木と小さな中庭が見えます。春から初夏まではその中庭にスミレの花が咲いています。和室の際に植えたラベンダーがやはり初夏には一斉に花を付け、空気の沈む夕暮れどきにはあたり一帯がラベンダーの香りに包まれます。

 田所さんと妙さんの部屋にはベランダが付いていて、洗濯物はそこに干すのですが、遠く南西の方向に山々が望まれ、夕日はいつもそこに沈んで行きます。妙さんの好きな風景です。

09 ソファー

 一階の居間の東側の出窓の脇に二人掛けのソファーが置いてあります。家を新築したとき、妙さんがいちばん欲しかったものがソファーでした。結婚してからずっと狭いアパート住まいでしたから、もしお金に余裕があったとしてもなかなか求めることはできなかったでしょう。

 三年前に家を新築した当初は必要なものをそろえるので精一杯でしたが、それも一段落すると、田所さんと妙さんは前から考えていたソファー探しを始めました。

 休日の午後などに大型家具店やホームセンターを回って調べ始めましたが、こんなにいろんな種類のソファーがあるのに、自分たちの希望に合致するものを見つけ出すのは意外に難しいものだと二人はあらためて感じました。二人の希望は、大きさが居間の東側にちょうどよいもの、つまり出窓の前に置いてある電子ピアノの脇から南の端の水槽の前までの、東の壁にちょうど収まるものを考えていました。さらに座った感じがゆったりとしていて気持よいものを求めていましたから、限られた予算の中で妥協しないで探し出すのはなかなか大変なことでした。休日を利用して気分転換もかねて郊外の大型店に行ったりもしましたが、いちばん気に入ったものは、結局自分の町のよく行くホームセンターに置いてあったものでした。

 それは木製のしっかりした枠のある、座る部分が本革で、表面の感触も座り心地も申し分ないものでした。値段がそれ相応に高かったので少し考えましたが、毎日使ってしかも長く使うものでしたから、それほど迷うことなく決めることになりました。それにしても、こうした製品の数の多さには探しているうちに疲れてしまうくらいで、産業社会が成熟したひとつの見本のようにも感じましたが、しかし、二人がほんとうに求めているものにはなかなか出会えないということもまた別の事実でした。いつも真剣であったというほどでもありませんが、二人が最終的に妥協なく決めるまでには、一年近くが経っていました。すぐに必要なものではなかったからでもありますが、一つのソファーがほんとうに気に入ったものと出会うことのむずかしさを二人に教えてくれました。田所さんは、以前に読んだカーソン・マッカラーズのことばをふと思い出しました。「人が人を愛するのはたいへんむずかしいことだから、人はまず、木立や岩や雲を愛することから始めなさい」というような内容でした。ですから二人もまず一つのソファーを大事に使うところから始めなければならないのかもしれません。

 こうして求めたソファーですから、家族のみんなに愛されたことはいうまでもありませんが、家族一人一人の使い方が微妙に違うことに、田所さんはまもなく気づきました。

 兄の高彦くんはそこで新聞を読んだり、ちょっと雑誌に目を通したりすることもありますが、いちばん大きな使い方は、そこで眠ることです。178センチの大きな体をソファーの中に押し込むようにして疲れているときは爆睡してしまいます。爆睡とは,ぐっすり寝こんでしまうことの、若者用語です。ときにはソファーから落ちたままで眠っています。

 弟の安彦くんは、そこでもっぱらものを食べるときに使います。好物のチョコレートをかじりながら、こども新聞を見たり、まんが週刊誌を見たり、自分でミロを作ってきて飲んだりしています。

 妙さんはどうでしょうか。彼女はいつも忙しいのでゆっくりソファーにいることはあまりありません。でもときどき夕食の後、そこに腰を落としてしばしゆっくりとコーヒーや紅茶を飲むのが好きなようです。

 最後に弘平さんはどうでしょうか。彼も余り長くそこにいることはありません。ただちょくちょく座ることは確かです。夜や休日や空いている時間に居間にいちばん長くいるのは弘平さんかもしれませんから。兄弟はそれぞれの時間を持ちたくなると、「じゃ、二階に行きます」といって居間から離れるからです。妙さんは和室が好きですから、ゆっくりするきは、自分のお茶を持って和室の座卓のまえに行きます。

 こうしていわば最後に弘平さんが取り残されるようなかたちになります。妙さんが和室からいいます。「みんなが別におとうさんのこと、きらいってわけじゃないから」 

 こうして弘平さんのつかの間の孤独が訪れます。椅子やソファーに腰掛けながら考えるのです。私たちの生きてきた時代やこれからのことについて。しかしそんなときもっともよく浮かんでくる思いのひとつは、むかし読んだ吉田健一さんのことです。もっとも吉田さんが好きだったのはこうした夜ではなく、移ろいやすい夕暮れのひとときであったようですが。そこに静かに雨が降っていればもっとよかったかもしれません。確か吉田さんの絶筆は文芸雑誌に載った、桜のころに降る雨のことを書いたものであったように記憶しています。

10 

 田所さんの庭はたいへん狭いのですが、いろいろなものが植えてあります。東側の窓の下には、妙さんがたのしみだから植えたいと言ったブルーベリーの木が二本、萩が数本、白いサザンカが窓の両脇に一本ずつ、家の裏側にかけてはヒメコブシが二本植えてあります。あと八重咲きの山吹が二本あります。ブルーベリーはその実をつんで、ジャムを作りたいというのが妙さんの希望ですが、それがいつごろになるかいまのところわかりません。でも少しずつ大きくなっているのは確かです。ヒメコブシの下にはハーブが少しあります。丈夫なバジルとセージがもうかなりブッシュの状態になっています。

 南側は居間の方から見て、まずいちばん東よりにかなり大きくなった白樺の木、これは家を建てたとき、妙さんがぜひ植えたいといった木でした。その脇に白い梅の木がまだあまり大きくならないであります。東の縁にはカロライナ・ジャスミンが金網の塀にもうかなりからまっています。その内側に去年の暮れに植えたミモザ・アカシアが今年に入ってぐんぐん伸びてもう白樺を追い越しそうです。春にはこまかい黄色の花を咲かせました。

 南側の塀は低いブロックの上の金網の内側にベニカナメを並べて植えてあります。居間の前には春の初めにかぐわしい花をつける沈丁花、その右にシャクナゲ。これは白い大輪です。その右に背のまだ低いエゴの木、これは園芸センターで盆栽として売られていたのを地面に下ろしました。白い細かな花が咲く予定です。

 エゴの木は、田所さんがこどものころ、たくさんあった林の中で、いつもいちばん目にする木でした。すっとのびた木の上に枝が気持よさそうに広がっていて、こどもたちの木登りの絶好の対象でした。でも田所さんがこの木をことのほかに好きなのは、大人になってまだあちこちに残っていた晩春の林を歩いていると、うっすらとした夕暮れの前方に枝を広げてひっそりと咲いているエゴの木の白い花のうつくしい姿を、開発で跡形もなく消えていった数々の林の象徴として、今にはっきりとおぼえているからです。

 小さな盆栽のエゴの木を買ってきて庭に下ろしたのは、そうした林の追憶があったからでした。妙さんは弘平さんのこどものころのことを聞いていると、自分と三つしか違わないはずなのに、もっと遠い時代を過ごした人のように感じてしまうことがよくあります。妙さんも郊外に育ち、犬を野原でよく散歩させたりしたのですが、弘平さんのはなしは、それとは全く違っていました。弘平さんはこどものころのことをよくおぼえていてそれを妙さんに語るとき、その風景のあまりにはっきりとした輪郭のゆえに、妙さんを驚かせるのでした。

 エゴの木の右、六畳の和室の前に蘇芳のひょろながい木、その右に秋に紅葉のうつくしいベニシダレというモミジ。その下に背の低いクチナシがあります。そこがちょうど門のへりで緑白色のコニファーがまだ小さいのですが門の替わりをしています。和室と門のあいだの通路をバラのアーチにしてあります。バラは新雪という白の大輪の四季咲きのつるバラです。それに深紅のアンクル・ウォルターというやはり四季咲きのつるバラが混ぜてあります。

 東側の塀は、表から門の替わりのコニファーがバラのアーチの側と対になって植えられています。そこから順に淡いピンクのミニバラ、紅梅、ミソハギ、ドウダンツツギ、月桂樹。月桂樹は妙さんが料理に使いたいと植えました。もうときどき使っています。今年は枝が大きく伸びました。その右に背のまだ低い炉開きというつばき。そして全部で六本のサザンカの木。これは冬の西風を防ぐつもりと、十月からつぎつぎに咲く花のうつくしさにひかれて植えました。田所さんの少年時代の冬の庭にはいつも大きなサザンカが咲いていました。今は大角市にいるおばあちゃんの話では、そのサザンカは田所さんが生まれたときの記念に、紅白の小さな苗を植えたのが大きくなったものだということでした。紅の方は早くに枯れたようですが、白がその分まで大きく成長してくれたわけです。

 サザンカの下にはヤブランがずっと並べて植えてあります。夏に薄紫に穂状の花をながい間咲かせてくれます。玄関の前にはアヤメの株が三つと黄色いデージーが今年も元気です。その辺りは陽射しが優しいので、いつのまにかハーブなどの鉢が置かれるようになりました。セージ、ロ-ズマリー、ペパーミント、トウガラシ、そして深紅のハイビスカス。玄関の脇には黒いきれいな細長の鉢に、サボテンの月下氷人、金の成る木、タマスダレの三つが置いてあります。三鉢とも、花の好きな方がくださったものです。

 裏の北側には左から順に、まず左すみに萩、少し離れ黄色の花が咲くアンデスの乙女、ローズマリー、白い山吹、もう一つ萩、その右に不燃ゴミを入れるペールが三つ置いてあります。でも育った山吹と萩にかくれて今ではちょうどいい具合に見えなくなりました。その右はキッチンの出窓なのですが、そこにやはりサザンカの木、その右にまだ小さいオリーブの木、寒さでうまく育つか、まだ心配です。いちばん右のサイドにはやはり萩、そして南天。いちばん東よりに柚子の木。いつかこの木から柚子の実を採って柚子湯に入りたいのですが、それはいったいいつになるでしょうか。

 もう一度南に戻って、和室の前はレモンバームやペパ-ミントのハーブ園。そのへりにサザンクロスのピンクの花が春から秋まで咲き続けます。いちばん門よりのところにはミニバラ。赤い花をやはり晩秋まで咲かせます。和室の東側は門の方から水引草、ミニバラ、ウメモドキ、もう一本やや背の低いウメモドキ、一番すみにヤマボウシ、下にはずっとラベンダーが植えてあります。ここからはもうずいぶん花をつみました。部屋をいつまでもそのかおりでつつんでくれます。

 ラベンダーの前に小さな中庭があります。夜になるとここは駐車スペースになってしまうのですが、昼の空いているときは「中庭」にしようと弘平さんが提案して実現しました。今はバジルが茂り、スミレの花が咲いています。

 そして玄関の脇にはこの家でいちばん大きい庭木、シャラの木がもう二階の安彦くんの部屋まで届きそうに伸び、夏には白く可憐な花をたくさん咲かせてくれます。安彦くんはこの木を植えたとき、この木を伝って自分の部屋へ出入りすることが夢でした。それはもう少しでほんとうに実行できそうになりましたが、安彦くんの心がそれまでに変わってしまわないか、そのほうが問題でしょう。

 小さな庭なのに、数えあげてみるとこんなにたくさんになるので驚きます。弘平さんと妙子さんが三年前この庭のスペースを見たとき、こんな小さな庭しか持てないんだねと思ったことが、うそのようです。

 妙さんが職場で同僚に、「うちには、バラのアーチがあって、ハーブ園があって、中庭もあって、青砥石の道にそって散歩するんです」というとみんながびっくりするそうです。狭い庭にどうしてそんなにたくさんのものがあるのか、だれもどうしても信じられないからです。

 「でもほんの二三秒の散歩なんです」。庭というのはやっぱりどこか不思議なものです。

11 バラの日々

 五月はバラの日々です。五月に入ると、バラは一斉に咲き始めます。深紅のカサブランカ、たかい香りのする純白のホワイト・クリスマス、名前を忘れましたがやはり高く香る黄色のバラ、薄紫のバラ、赤と白が交じり合っているバラ、いくつかのミニバラ、パティオ・ローズと呼ばれる中輪のバラなど。そしてなによりも南に面した道の垣根に這っているつるバラ。新雪と言う白い四季咲きの大輪のバラです。それに垣根の右端と左端に深紅の花で剣弁のつよいアンクル・ウォルター。去年の冬に造ったアーチにも新雪とアンクル・ウォルターを絡ませています。

 田所さんも今では人がなぜバラを愛するのか少しわかるようになりました。バラはいつも毅然としているのです。風に吹かれてそよぐのでもなく、陽光に葉裏をきらめかせるのでもなく、花びらを一枚一枚自らの意志にそって開くのです。青緑の堅い葉の前にくっきりと強く咲くのです。厚い花びらの一枚一枚が強い自己主張をしています。

 こんなに自らを美しく主張する花はないのではないでしょうか。五月はバラの日々だと、人は確かに納得します。五月の午後の、ときにはもう盛夏を思わせる強い光を受けながら、花自身は、さらば、短き夏の光よと、すでにその終焉を予告します。人生の頂点は決して永続せず、午後の光とともに移ろうかのように。やがて夕暮れが訪れ、白いバラが優艶に輝き始めます。ふと立ち止まると、そこに高いかおりが漂っています。

 弘平さんは、夕食の後、妙さんと一緒に庭に出て、それらの、幽暗の中の白い花々をめでるのです。濃い紺色の空に月が出ていて、一日の疲れが消えていくような気がします。


12 植物画

 田所さんの居間の壁に、シャクナゲの花の植物画が掛けられています。シャクナゲは田所さんの好きな花です。その画はやや褐色がかった緑の大きな細長い葉に、白く大きな花が集まり、花の中心近くは濃い黄から橙があでやかさを感じさせます。

 田所さんは三十代に、幾度か奈良京都を旅したことを思い出します。

 ある年の五月、奈良国立博物館で浄土教の展示を見て宿泊し、翌日は京都に戻り、そこから比叡山に上り、山頂のシャクナゲ園を見、展望台に上り、横川へ回り大津へ降りてきました。おだやかな晩春の一日でした。

 大学で聴講している間に、田所さんは時間を作り出しては、奈良と京都に出かけました。多くは静かな冬にでしたが、このときは展覧会とシャクナゲの開花にあわせての五月の旅となったのでした。

 横川には全く人けがなく,恵心院も静けさの中にありました。源信の本はまだやっと往生要集を読み終えたばかりでしたが、それでも実際にゆかりの地を訪ねられることは大きな喜びでした。それ以後源信の全集も求めましたが、田所さんの力で簡単に読めるものではありませんでした。それでも時間を置いて少しずつ読み進めますと、日本の平安時代の深い奥行きが、王朝のはなやかな文化とは離れたところで静かに進行し、その一方で中世の始まりを準備していたことに思い至りました。

 シャクナゲの花は、そのころの田所さんの真剣な思いを受け止めるかのように、比叡山の山頂に静かに清楚に咲きそろっていました。

13 レパートリ

 田所さんの家ではみんな料理を作るのが好きです。まずお母さんの妙さんは、仕事の帰りにお店によって、そこで見たおいしそうなものは、必ずその日の夕食に登場させるというほど行動力に富み、味も安彦くんによれば「おかあさんの作ったものがいちばん」、兄の高彦くんによれば、「これだけ速く作れればすごい」とその評価は微妙に違うのですが、とにかく料理が大好きです。

 弘平さんは数少ないレパートリを深くきわめていると自分では思っています。兄弟二人は、おとうさんが作るチャーハンが大好きです。このおいしさは妙さんも認めています。野菜炒めも得意ですし、オムレツも柔らかくふんわりと作ることができます。あまり複雑でないものはとにかく一通りは作ることができるのです。

 弟の安彦くんはおかあさんと一緒のケーキ作りが得意です。細かくていねいに小麦粉をふるいますから、スポンジケーキがとてもやわらかくおいしくできあがります。

 兄の高彦くんは麺類が好きですから、ラーメンやそばを自分でゆがいたりします。

 こうして田所さんのところでは、妙さんを中心に、しばしば食べ物のはなしが行き交うのです。油のこと、香辛料のこと、栄養価のこと、病気に対して特別な効用がある食べ物のことなど、話題はなかなか尽きません。

 そもそも田所さんが料理は楽しいものだと思ったのは、弟の安彦くんが生まれるころ、おかあさんの妙さんに代って臨時に食事を作るようになったのが始まりでした。

 長男の高彦くんが生まれるころは、妙さんと二人だけでしたから、多分外食や持ち帰り弁当などを適宜に利用して、その場その場を過ごしたのではないでしょうか。とにかく田所さんがメニュを考えたという記憶はあまりありません。しかし三人分となるとそう気ままにもできず、田所さん自身が努力してみようということになったのではなかったでしょうか。

 そうなるといつも味噌汁と卵焼というわけにもいかず、まずレパートリを増やそうというわけで、手近な新聞のレシピを切りぬいて、その日その日の参考にしました。始めてみると料理の献立を考えることは、非常に楽しいことだと気づきました。結果がすぐに食卓の残量として表れますし、なによりも自分の希望と工夫とをその日その日に活かせることが最高でした。

 家族のことを考えることはもちろんですが、それでもやはり自分が今いちばん食べたいと思うものを作ることができるのは、大げさに言うならば田所さんの生涯の中の大きな転機となったのです。なぜなら、自分のことは自分でするとよく言いますが、そのもっとも基本である食事が多くの男の人の場合、奥さんをはじめとして女性の判断にゆだねられているということは、どんなにえらそうなことを言っても、「食事さえ作れないのに」と言われたときにはどう反論するのでしょうか。ですから田所さんは二人の兄弟に、食べ物を自分で作れるようになると言うことはたいへん大事なことなのだよと、自分の半生に照らして切実に伝えることにしています。

 でも料理の本質は、ただ作るのが楽しく、そして食べるが楽しいということに尽きるでしょう。田所さんはまたなにか新しいレシピに挑戦しようと思っています。繰り返し大げさに言うならば,ひとつの料理の出現で世界が新しくなるのですから。こんなにすてきなことはないと思っています。

 14 観葉植物

 田所さんの家ではみんな植物が好きです。もっとも安彦くんが木立の成長に期待を寄せるのは、シャラの木を伝って自分の部屋に入るためですから、少しだけ範疇がずれているかもしれません。でもバラのアーチを作ったときいちばん喜んでくれたのは安彦くんでした。もっともこれも、その下を通って居間の前の庭に自転車を置くのは彼だけでしたから、そのためにうれしかったということも少しあるようでした。確かにどんなに小さくてもバラのアーチの下を通るのは気持よいものです。しかも今年の五月にはレンガの小道をアーチの下に敷く予定ですので、そうなれば安彦くんはもっと喜ぶことでしょう。

 玄関を入ると、右側の明り採りの窓にプミラの鉢が置いてあります。窓枠に置くのですから小さな鉢なのですが、とても元気で今では窓枠の下、二三十センチ下まで枝が伸びてきています。

 玄関を入って左手に洗面室がありますが、その窓にはトポスの細長い鉢がやはり窓枠に置いてあります。窓は北に面しているのに成長が早くてもう二度ほど枝を切りました。

 和室には観葉植物は置いてありません。その代わりにというのでもありませんが、高彦くんのむかしの保育園の先生だった横田さんがくださったかなりの量の竹炭が、春慶塗の箱の中に入れて置いてあります。竹炭はいろいろな有害物質を吸収除去してくれるそうです。いつかお店で見てその量の割に値段が高いのを知ってびっくりしました。なにもいわずに置いていってくださった横田さんにいつも感謝しています。

 横田さんは、たいへん勉強熱心でしかもアジアのいたるところを駈け巡っている旅人です。ときどき夜に電話が入り、「今朝、日本に着きました」と報告してくれます。「今度はどちらへ」とたずねると、いつも聞いているだけでこちらが疲れてしまうような行程を話してくれます。おかげでアジアの最新の情勢を田所さんはいながらにして聞くことができるのです。

 横田さんはときどき仕事の帰りに寄ってくださり、旅のめずらしい話やお土産を田所さんの家にもたらしてくれます。ですから田所さんの家にはいくつか横田さんのお土産が飾ってあります。

 横田さんは初め、中国に旅をしました。そのとき田所さんが知っている初歩の中国語を教えてあげたのが保育園時代のおつきあいが再開するきっかけになったのです。その初めての旅行のお土産がパンダの模様を織り込んだ革のクッションで、もう十年近い前にいただいたものですが、このクッションの裏側にはマジックで「1の1 たどころたかひこ」と書いてあります。高彦くんが小学校で行われる学芸会のときに体育館の床に敷いて座ったり、地域の夏の子供映画会のときに持っていったりして随分と利用させてもらいました。その高彦くんが今はもう高校生になったのですから、年月の過ぎ行く速さに驚きます。そして現在は田所さんの椅子のクッションとして愛用しているというわけです。

 横田さんはその後幾度となく、中国西域から天山北路や南路、タクラマカン砂漠、チベット高原、パミール高原、パキスタン、インド、ネパール、ウズベク共和国など、数え切れないほどの国々と地域を旅し続けています。その旅の根元には玄奘三蔵の大唐西域記が厳然として存在しています。法師の求法の旅は千数百年の時空を超えて、現代の一人の女性を今もなお深く強く突き動かしていると言えるのかも知れません。

 田所さんの玄関の壁には横田さんがウズベク共和国で求めてくださった0イスラム寺院の描かれた絵皿が掛けてありますし、和室には横田さんの高校時代の先生が書かれた仏画の複製があります。居間には横田さんがインドで採取した菩提樹の大きな葉を額に入れて飾ってあります。そのほかインドの古いレンガの小片、タクラマカン砂漠の砂、岩塩、パキスタンの装飾用の小さな靴、きれい革袋に入った小刀、そのほか古代遺跡や出土した仏像を写した写真の大きな引き伸ばしなど、数え上げてみますと、こんなにもたくさんいただいていたことに驚きます。

 今はもう一度植物の話に戻りましょう。居間には水槽の脇に妙さんの誕生日祝いに兄弟が買ってくれたジャックと豆の木が置かれています。これもたいへん元気で枝がもうずいぶん分岐しました。

 二階の大人二人の部屋には、特に植物は置いてありません。その代わり田所さんがリースを作るためのドライフラワーが窓の脇に掛けてあります。そしてベランダの隅には冬越しの植物のために組み立て式の小さな温室を去年求めて置いてあります。ここに来た初めての冬のおととしから、去年の冬は植木が随分と寒さにやられましたが、去年から今年にかけての冬越しは見事に成功しました。小さくても温室はやはり温室です。

 高彦くんは高校で天文部と生物部に入っています。植物が好きですから、彼の部屋には大好きなハーブはもちろん、種から育てたビワの木やサボテンも幾鉢かありますし、金の成る木や朱竹も置かれています。

 安彦くんは、自分の窓の下に見えるシャラの木が早く自分の部屋に届くのを待っています。「早くしないと子どもが終わっちゃうよ」というのが、しばらく前の彼のことばでしたが、さすがに六年の今は静かに木立の成長を見守っていてくれるようになりました。彼の部屋の眺めも兄の部屋に劣らずすてきで、道の向こうの山辺さんの畑ももちろん見えますが、兄の部屋からは見えない小さな、駐車スペース兼用の「中庭」が見えるのがよいのです。

 二階のトイレには、ミニ・ヤシの木などを置いたことがあるのですが、北窓で換気のために開けておくことが多かったせいでしょうか、元気がなくなりかわいそうなので、外に出してやりました。今もその状態で元気ですから、トイレには戻さないであります。今度本で見たエアプランツを買ってみたいねと弘平さんと妙さんは話しています。

15 レンガの道

 庭にレンガの道を作ろうと思ったのは、去年の秋でした。去年は春のうちに庭に芝生を張ったのですが、夏が過ぎ、秋に入ると、夏の間に踏まれた芝はもう元に戻らず、褐色に変わってしまいました。まだ土がよくなかったということもあったのでしょうが、やはり庭には小さくても道を作らなければと、思うようになったのです。

 それからはなかなかたいへんでした。レンガで道を作るといっても、まずいろいろな種類のレンガがあります。お店に行ってみると、レンガにも黄土色から褐色、こげ茶色まで実にさまざまです。田所さんは実物を見たり、本で調べたりして、最終的に茶褐色の落ち着いた色のレンガにすることに決めました。

 道とも言えない短いものですが、玄関の方へ行く道と、居間の方へ行く道の、二つを作らなくてはなりません。一見単純なようですが、どのくらいの幅でどのようにレンガを並べていくかという細かい部分になると、それなりに難しいものです。田所さんは本を何冊か調べ、本といっても写真が主なものですが、自分の中にこうしたいというイメージを作り出そうと努めました。

 雑誌を見るといろいろな庭の写真が載っています。外国の庭も、著名なものからプライベートなものまで、いくつも紹介されています。庭の様式ひとつをとってみても、今では国際的な交流がなされていることを感じました。

 多くの写真を見てみても、その中で自分の庭の参考になるものは意外とないものです。特に田所さんのような狭い庭においてはなおさらです。それでも何度も見ているうちに、自分が願っている庭と道のイメージがだんだんわかってきました。傷ついた鳥が羽を休める場所、それが田所さんがたどりついたイメージでした。それを妙さんに話すと、妙さんは「なんだかすてきすぎるわ」と言って、笑っています。それを五月の休日の間に実現しなくてはなりません。

 五月に入ると、さすがによい天気が続くようになりました。レンガは結構重いので、去年のうちから少しずつ買い足してゆき、それが今は庭の隅に積んであります。もう百個は超えたでしょうか。とりあえずこれで組んでみて、足りなかったら買い足してゆくつもりです。レンガの組み方もいろいろあります。田所さんはそれも少し調べました。そして縦方向にひとつ、横方向に上下二つという形で並べてゆくことにしました。

 五月の朝は気持ちよいので、田所さんは朝早くから起きて道作りに専念しました。まず道の幅に溝を掘り、底面をよく踏み固めてから砂利を薄く敷いてまた足で踏みならし、それからようやくレンガを敷いていきます。少し長くなると、田所さんは一度その上を歩いてみます。レンガは土とも芝生とも違って、独特の硬さとすこしばかりの柔らかさを持っています。これはきっと土と火が作り出した精妙な世界なのでしょう。しかもレンガの上に水をかけると、レンガはその色合いを微妙に変化させます。そしてその色は時間の経過とともに少しずつ変わっていきます。田所さんはなんだかすっかりうれしくなってしまいました。土を掘り起こす柔らかい感触。小石が自己を主張し、ときにはミミズも出てきます。どんなに小さくても大地と、その上を流れる空気すなわち五月の薫風とのふれあい。ときには初夏を思わせる太陽の光と汗。ささやかな一日の労働とそれに倍する成果と家族の感謝。家族や訪れる人たちが歩く道が、少しずつできていきます。

 玄関へ行く道は直線で、居間も方へ通ずる道はゆるやかなS字状の曲線になっています。なんという幾何学。小さなひとつの庭と道が、大げさに言えば世界存在の意味を内包していたなんて、これはきっと自ら庭を作った人以外には想像できないことでしょう。

 こうしてすばらしい庭と道が完成しました。田所さんはその上を何回も行ったり来たりして、レンガの優しい感触を確かめました。ほんの数秒で隣境についてしまうのですが、歩いているときは無限に思われるのです。家族も親しい人もみんなよくできましたねとほめてくれます。なかでもいちばんほめてくれたのは、一緒にレンガを買出しに行った妙さんでした。

16 松村おばさん

 松村おばさんとお会いしたのは、ほんとうに偶然でした。私が用事で立山市に行き、大通りを歩いていたときのことでした。見ると帽子がひとつ風に巻かれて歩道をくるくると飛んでくるではありませんか。それは女性用のこげ茶色のものでした。今日は風が強いからと、田所さんは思いました。取り上げて帽子の内側を見ると、「大角市 松村」と書いてあります。田所さんの妹夫婦が、おばあちゃんつまり田所さんのおかあさんと一緒にすんでいるところと同じ市です。なんとかして届けたいものだと、田所さんは思いました。

 家に帰ってから、電話帳で探してみました。さいわい大角市はそんなに大きくはありませんでしたから、幾度目かの電話で、無事松村おばさんに連絡が取れたというわけです。  それから宅急便で帽子を送り、お礼のお手紙をいただき、こちらも季節のおはがきをお送りしたりしているうちに、いつのまにか親しくなっていたのです。

 そんなある日、田所さんは前から気になっていることをひとつたずねることにしました。そのときはですからお手紙ではなく電話でお話をしていたわけです。

 「あの、もしかしたらおばさまのご主人は、音声学の松村先生ではいらっしゃいませんか」、田所さんがそうたずねたときのおばさんの驚きの表情は、電話ででしたが、今もはっきりとおぼえています。おばさんは一瞬息を飲み、それからあたかも田所さんがシャーロック・ホームズであるかのように、おそるおそるたずねたものでした。「どうしておわかりになりましたの」

 おばさんの話し方はいつものように、静かで落ち着いていましたが、驚かれたことは確かでした。田所さんは申し訳なかったかな、とおもいながらも、なかばホームズ探偵のように、おごそかにしかも心から楽しそうに説明をはじめました。

 「だっておばさまは、うちの主人はまわりじゅう英語の本に囲まれて一日中それを相手にしていればいいのです、とおっしゃっていたでしょう。カメラもときどき本の背表紙を写すしたりするためにお使いになるともおっしゃっていましたね。東京の近郊で、つまり東京の大学に通われる範囲で、松村姓の先生を思い浮かべれば、一日中英語の本をお使いになっているわけですから、まず浮かびましたのが、音声学の松村先生であったわけです。」田所さんは、きっとホームズ探偵がそうであったように、ほほえみながらおばさんに話しかけていたでしょう。

 おばさんはこのときはもうすっかり落ち着いて、「そうですか、でもおよくおわかりになりましたねえ」といつもの、なんに対してでもたのしそうに話される声に戻っていました。

 「だって私はずっと先生の辞書を使っておりますから。表題が確かユニコーンだったときからです」田所さんがそう追加しますと、おばさんはこれには全く無関心で「そうでいらっしゃいますか」と、あなたもきっと主人の仲間なのねいう感じで答えられました。田所さんはおばさんのこういうさわやかなところが好きで、いつのまにか勝手にお友達というふうに思っておりました。

 ユニコーン英和辞典、なんとなつかしい響きでしょう。この辞典をはじめて本屋さんで見たとき、田所さんがとっさにひいたのが、確かhillという単語でした。説明を読むとhillとmountainの違いは標高700mぐらいからであると書かれていたことが、当時は非常に新鮮に感じられました。さすがにおばさんにはそこまでは話しませんでしたが、先生との不思議な縁を思いました。 

 それからさらに、田所さんが大学で言語学を教えてもらった百瀬先生と松村先生は後輩・先輩の関係でありました。そのことは私はずっと前から知っていました。ようするにお二人ともたいへん高名な学者あったわけです。こうしたことから田所さんはその後はときおり松村先生ともお話ができるようになりました。もっとも百瀬先生と話すときと違ってかなり緊張してはいましたが。

 今年の2月、ある英語雑誌を見ていたとき、英文学・英語学の二十世紀回顧の特集があり、その中で松村先生は音声学を鳥瞰していました。簡潔な行文にぎっしりと重い二十世紀が詰まっていました。田所さんはこのとき、先生はいわばおひとりで一世紀と向かい合うことができるのだと、深い感動をおぼえました


17 百瀬先生

 百瀬先生は言語学の先生です。田所さんは百瀬先生から、二十代の学生のときにはロシア語を、三十代の聴講生のときには言語学を、教えてもらいました。失礼な言い方かもしれませんが、長いお付き合いということになります。その年月の間に、田所さんが年を取った分だけ百瀬先生も年をとりました。先生と田所さんは十歳くらいしか年がはなれていません。田所さんが大学三年でロシア語を学んだとき、百瀬先生はまだ三十代のはじめだったはずです。

 先生は教室にはいってくるときよくスポーツ新聞を持っていました。先生がどこの野球チームのファンであったかもう忘れましたが、先生のひいきのチームが勝ったときは、なんとなく楽しそうな始まり方をしました。

 三十代で聴講生であったとき、毎年のように先生の言語学を聴いていましたが、年度の初めに教室で先生にお会いすると、「田所君、もう来なくてもいいんじゃない」とよく言われたことをおぼえています。

 言語学の細かい内容の多くはもう忘れてしまいましたが、それでもいくつかは鮮明におぼえています。ひとつはカルツェフスキーの「言語記号の非対称的二重性」の話、もうひとつは「プラハ言語学サークル」の存在です。それらの内実についての田所さんの感嘆は、ことばのようなとりとめもないものに対してよくそんなに理論を積み重ねていくことができるものだということでした。

 カルツェフスキーの話は、ことばというものがいかに柔軟なものであるかということを田所さんに教えました。またプラハ言語学サークルは、歴史が進行するなかで、ひとつの存在がいかに歴史のもたらす埋没性に抵抗できるかを、田所さんに教えました。プラハ言語学サークルは、第二次世界大戦後、構造主義の名の下に大きく世界に広がりました。構造言語学、とりわけ音素の二項対立、構造主義人類学への発展、数学におけるブルバキ集団、ヤーコブソンとレヴィ・ストロースとのニューヨークでの出会い、トゥルベッコイの音韻論。どのひとつをとっても、めくるめくような理性の営みでした。

 百瀬先生は、ことばが、ひいては考えることの柔軟さが、いかなるときにももっとも大切なもののひとつであることを、いつもていねいにさまざまな例を引きながら教えてくださいました。

 先生とはそれからもう久しくお会いしていません。長い年月をかけて無事大書を編集・完結なさったことなどをゆっくりお聞きしたい気持です。いつかまたあの古ぼけた階段をぎしぎしと上って、たしか「カルフォルニア」という名前であった喫茶店で、当時先生がもしかしたらほんとうに真剣であったかもしれないインベーダーゲームのことではなく、ただ一杯のお茶を飲みながら、音韻論や意味論でもない、すでに亡くなったやさしい人々の声音と、もどることのない人生の意味について、先生から親しく教えていただきたいと思っています。

18 佐藤さん

 田所さんは倉庫で働いています。大きな倉庫なので大勢の人が働いています。田所さんの仕事はさまざまな運送業者から到着する荷物を伝票とともに受け取り、記載事項を確認してから仕分けして指定された店の台車に配分し、配送トラックに積みこむまでが主な内容です。

 輸送トラックは朝の九時を過ぎると徐々に到着し始め、十時を過ぎたころにはたいへん忙しくなります。

 田所さんはここで佐藤さんと一緒に仕事をすることが多く、二人の間には見えない糸が張られているかのように、ほとんどがいつも無言の連携プレーで、仕事が次々と処理されていきます。

 佐藤さんは田所さんより年上で、もうかわいいお孫さんが二人もいます。と言っても田所さんは実際に見たわけではなく、佐藤さんから写真を見せてもらったことがあるのです。佐藤さんは旅行が好きでよくいろいろなところに出かけます。しかしそれほど遠いところではありません。

 佐藤さんがいちばん好きなのはたぶん秋になって紅葉を見に行くことだと田所さんは思っています。なぜかというと佐藤さんがいちばんよく話してくれるのが紅葉の話だからです。「それにしても佐藤さんはどうしていつも、あんなにうれしそうに話すことができるのだろう」と田所さんは思います。それについて何度か考えた結果、田所さんは今では次のように結論しています。「それは結局佐藤さんの人間性によるのだ」ということです。実際佐藤さんは不思議な人なのです。

 佐藤さんは昼休みの食事が終わると、よく外に出てひなたぼっこをします。倉庫の仕事は室内作業ですから、太陽の光が恋しくなるのです。それでも、多くの人はそれほどひなたぼっこに精を出しません。ほかにすることがたくさんあるからでしょう。佐藤さんだけは太陽の光があるときはほとんどいつも、スレートの壁に背をつけて、ひざの上に腕を乗せてゆっくりとタバコをふかしているのです。田所さんもよくその横に行って座ることがあります。

 倉庫の床はコンクリートで、台車は鉄でできています。天井は荷物をたくさん積み上げられるように非常に高く、壁は鉄の支柱にスレートを張ってあります。入口は荷物の受け入れのためにいつも開けてありますし、反対方向のドアも荷物の運び出し用にいつも開けたままになっています。倉庫の中は夏でも十分に涼しく、冬はかなりの冷え込みになります。冷暖房は品質維持のため、まったくありません。

 ですから佐藤さんは昼休みになると、よくひなたぼっこをするのです。その姿がまた実に気持よさそうなのです。田所さんはその理由も考えて見ました。しかしその結論もやはり「佐藤さんの人間性によるのだ」としか言い得ませんでした。

 それではいったい「佐藤さんの人間性」とはどのようなものなのでしょうか。

 これはことばではなかなかうまく言い表わすことができません。ですからひとつの例でお話しします。

 佐藤さんは昼食が済み、ひなたぼっこも一段落すると、よくゴルフをします。ボールはどこかにしまってあったゴムボールです。スティックはこれもどこかから出してきた黒い雨傘の古いものです。

 広い倉庫の隅の方から、佐藤さんは逆さに持ったスティックを思いっきり振り切ります。軽いゴムボールはいきおいよくまったく知らないどこかへと飛んでいきます。ゴムボールは柔らかいのでどんなに強く打っても絶対に荷物を痛めることはありません。打ち終わると佐藤さんは雨傘をコンクリートの床に置いて、ゴムボールを探しに行きます。しばらく台車や積み上げられた荷物の裏を探していますが、まもなく無事にボールを見つけて帰ってきます。そうしてまた思いっきり強くボールを打つのです。それはそれは気持よさそうで、見ている田所さんもなにか胸がすっとします。

 当然ボールはまた見えなくなります。佐藤さんはまた雨傘を置いてボールを探しに行きます。その繰り返しですが、最後にとうとうボールの行方がわからなくなります。これでその日の佐藤さんのゴルフは終わるのですが、翌日になると佐藤さんはまたどこかからボールを見つけてきて、ゴルフを再開するのです。

 佐藤さんが新しいゴムボールをそんなにたくさん持っているはずがありません。事実佐藤さんが打つボールはいつもうっすらと汚れています。これはどこかに置き忘れられていたボールに違いありません。たった一つかせいぜい多くて二つのボールぐらいでしょう。

 それがどうしてこんなにいつも、当然のようにさっとボールをどこかから出してきて、ゴルフを始めることができるのでしょうか。ほんとうにそれは手品のようです。 

 今日もまた佐藤さんはコンクリートの床にゴムボールを置いて、気持よさそうに打ち始めました。

 簡単に言うと、これが「佐藤さんの人間性」なのです。

19 近代

 あらゆるものに四季が訪れるように、倉庫にも四季が訪れます。倉庫の四季は荷物の品目の変化に現れます。田所さんの現在の担当は、主に食料品とその周辺の品物です。配送先はあるスーパーマーケットの各支店です。伝票にしたがって倉庫に届けられたかなりの量の品物を各支店の希望品目伝票によって配分していくのです。

 トラックで届けられた品物は、伝票の確認を受けたあとラインに下ろされます。そこで各支店別に分類整理され、コンベアで移動させながら台車があるところで品物を下ろしていくわけです。食料品はまさしく季節を反映します。といってもここで扱う品物は乾物類が主で生鮮品は近くにある別の冷凍倉庫で行われています。

 田所さんはここで示される季節の移り変わりが好きなのです。それはもちろん自然の四季の変化とは違いますが、それに連動する変化なのです。たとえばある日突然砂糖の入荷が増えます。「ああ、そろそろお彼岸が近いので、おはぎを作ったりするのだな」と田所さんは思います。夏になるとそうめんや冷麦の入荷がコンスタントに多くなります。秋のお月見のころには小麦粉の量が増えます。「やっぱり人はみんな同じリズムで生活しているんだなあ」とつくづく感じます。クリスマスが近くなると、はなやかなシャンペンのパッケージが目を引きます。そしてお正月のしめかざりと続きます。

 トラックの入荷にも波があります。一日としては午前十時から十一時ごろがピークで、午後の一時から二時にかけてやや遠方からの別の小さいピークがあります。午後三時を過ぎると入荷はぐっと減って、仕事は倉庫内の在庫出しや整理作業に変わっていきます。こうして終業の五時が来ます。夏季や年末の繁忙期には残業がありますが、問屋や輸送との関係で、原則として夜の仕事はありません。ですから仕事としてはきわめて規則正しいものと言えるでしょう。

 午前と午後一回ずつ、仕事の合間を縫ってお茶の時間があります。勤めている人はだいたい近隣の市や町からですから、そのおりの話題も自然そうした地域のことが多くなります。田所さんはそうした話をいつも興味深く聞いています。以前自動車工場のラインで仕事をしていた後藤さんはメカニズムのことに詳しいですし、織物工場を経営していた大場さんは服飾関係の専門家です。染料のこと、糸の太さ、織の仕組みなど、こちらにそれらを受け入れる素地がないので、今一つ理解しにくいようなこともありますが、聞いていて飽きることがありません。自動車の吹きつけ塗装技術の話題が出たことがありました。かつてその行程はたいへんな労力を必要としたようです。後藤さんは今は主にフォークリフトを動かしています。田所さんはふとシモーヌ・ヴェーユの『工場日記』を思い出していました。

 神の出現を待ち望んだヴェーユ。重力と恩寵のはざまに揺れたヴェーユ。1909年生、1943年没。その天分のゆえにか、その天分をもってしてもか、近代という時代はあまりに重く暗かった。日本の立原道造、1914年生、1939年没。ちょうどヴェーユの五年ほど内側を生きた人。彼もまた繰り返し夜を歌った。夜明けを待ち望んで、しかし同時にそれよりもより強くたぶん夜明けを恐れてもいた。詩人はその存在自体が必然的に予言する。暗い近代のあと、詩人は現代に何を恐れていたのか。

 田所さんはときどき、しばらく忘れていたかのようにして詩や詩的な散文を読み返します。詩人は自らの意図を超えたところでその時代を具現しているからです。

20 大学

 田所さんはときどき大学のことを思い出します。田所さんは大学に二度通いました。一度目は二十代のはじめ、普通の大学生として。二度目は三十代に今度は聴講生として通いました。どうしてそうなったかと言いますと、一度目の大学であまりにも勉強をしなかったからです。しかし聞かれたときにそう話してもなかなか信じてはもらえません。事実を伝えることは意外にむずかしいものです。簡単に言えばそうなのですが、より正確には、田所さんは大学でまったく勉強をしなかったのではありません。自分が大学でいったい何を勉強すればよいのか、それ自体がわからなかったのです。田所さんにとって、自らの生涯において、何をもっとも真剣に学ぶべきかを二十代の初めに選択することは、決して易しいことではありませんでした。彷徨のうちに大学を終え、それでも当時は好景気でしたから、電気部品の会社に就職することができました。仕事は、用途によって細かく分けられた電気部品の在庫を管理することでした。電気関連の事業が日本だけでなく世界的に拡大していくときでしたから、今度こそ毎日が勉強でした。しかも目標もよくわかっています。適正な在庫とは何か。より少ない在庫でより早く納入する方法はないか。仕事の背景には世界経済の動向、工業技術の急激な進歩改良、労働条件の変化などがひかえていて、自分が現代世界の進行に同時参加しているという実感が確かにありました。しかしこの実感も仕事の全体が見えてくるに従って、少しずつ変わっていきました。

 在庫管理は人間が行うものですが、在庫そのものはもちろん物質です。田所さんはここで、日々膨大に流通し続ける物質に向かい合う人間とはいったい何かという、きわめて素朴な疑問にいつのまにか直面していたのです。

 田所さんはこうして初めて自ら学ぶことの必要に迫られることになりました。それがふたたび大学へと向かわせるきっかけでした。しかしまず現在の生活を維持する必要がありましたので、夜間の聴講生となったのです。

 大学は小さな丘の上にあります。したがって大学も小さなものでした。この大学には門と塀がないので、丘のどこからでも上って行け、また降りて来られます。明らかに資金不足と思われるこの大学は、雨が降るといくつかの屋根から雨水が漏れて流れ落ちていましたし、食堂の机も椅子もがたぴししていて、ラーメンの汁をこぼしそうになったことが幾度もありましたが、不思議なものでそうしたことに田所さんは却って愛着を感じているのでした。

 久しぶりの大学はなにもかもが新鮮でした。その中で今もはっきりとおぼえている光景があります。それはまだ四月まもないころ、書類を届けに休暇を取って昼のうちに大学の丘を上がって行くと、人だかりがしていてざわめきが聞こえてきます。近づいてみると、眼下の運動場で今まさに巨大な熱気球が空中へと上がろうとするところでした。気球ははなやかに彩色され、バーナーの音がごうごうとあたり一面に響いていました。しかしその光景は、学生たちの興奮の中にありながらどこかでしんと静まり返っていました。短い時の経過とともにかつての喧騒は去っていて、大学は変わり時代も変わりました。感傷から少し距離を置けば、アメリカでこの時代を生きた女性が、私たちはまとまったお金をばらばらのルース・チェインジつまり小銭に替えていたのかもしれないと冷静に述べていたことを、田所さんは思い出していました。田所さんがかつて大学で学んだことはいくばくかの外国語の初級だけでした。それもただ自分でテキストを読み、練習問題に答えるだけでした。語学を卑下しているのではなく逆に、それのみがかろうじて着実な進展感を与えてくれたのでした。質的な意味も含めれば膨大な時間であったその時代は、確かにルースなチェインジであったのかもしれません。

21 歴史

 田所さんが三十代で、ふたたび大学で学びはじめたとき、もっとも強い関心があったのは、歴史でした。特別な地域、特定の時代に関心があるというより、いわば歴史そのもの、歴史の全体にその進行に興味がありました。今ならば歴史の転換や近未来の予測というふうになるかもしれませんが、そのときはそのような思いは少しもありませんでした。いうならば歴史というものがどのようなものであるかを、自分の体で感じてみたかったということになるかもしれません。もっと正確には歴史というものに興味があるが、それがどのようなものであるのか、ほとんど近づく糸口がなかったということであったと思います。

 田所さんは、昼間は毎日在庫管理の仕事を続けながら、夜週に一日か二日、大学へ聴講生として通っていました。以前にロシア語を教えてもらった百瀬先生から言語学を学びましたが、田所さんがもっとも力を注いだのは、山野先生の歴史と南先生の哲学でした。

 山野先生からは日本の平安時代の歴史と文学とのつながりを教えてもらいました。南先生からは中国の古代思想史を教えてもらいました。南先生の中国古代思想史は夜の講座の一時間目でしたから、聴講する人はいつも小人数でした。もっともどの時間に置いても先生の講義ではそうだったかもしれません。あるときなど先生はいつものようにぷらりとした足取りで教室に入ってきて、かなり広い教室ですがそこに私しか見ないと、「今日はやめにしようか」といたずらっぽく話しかけてきました。折悪しくそこへ一人の学生が来てしまいました。しばらくするともう一人というふうにして結局数人は集まってしまいましたので、先生はいつものように広告のチラシの裏側を四つ切にして左上をホチキスで止めたペーパーの細かい書きこみを見ながら、いつものように低く小さい声でぼそぼそと話し始めました。ぼそぼそと言うのはしかし田所さんがそのように聞いていたというのではありません。一般の学生が多分そのように聴いていたと田所さんは思っていたのです。

 南先生の声は間近であるいは小さい教室で聴けば、人はその声がいかに明晰でいかに澄明であるかをいやおうなしに感じ取ったことでしょう。しかし大教室ではそれは無理でした。先生のおはなしを速記に近い形で克明に記録すれば、それはそのまま著作としての文章になりました。聴講を始めてまもなく、自分のノートを読み直していた田所さんはあるとき愕然としました。それはまったく著述そのものだったからです。端正で精確、こういう話をする人がいるということがまずもって驚きでした。田所さんはいままでそのような人に会ったことがなかったのです。

 あるとき先生は天の話をしました。黒板に中国の古典の原文を書いて説明を始めます。そのとき天という漢字がある字の上に行ったり下に来たりします。そうすると天の意味がすっかりかわってしまうのです。中国語の文法は漢字の配列の中にありますから、それは当然といえば当然ですが、このように明晰に天の概念の変異を、もっと正確には天の概念が中国語の行文によって変異するシステム全体を、かくも短時間の内にかくも明瞭にというのは行文によって検証可能な形で叙述することですが、それを淡々と行なう先生に接して、田所さんは驚愕しました。

 それからは辞典というものを見る目が少し変わりました。もっとも中国では語彙を集めた辞典というものはずっと作りづらいものであったようです。近代に入ってそうした辞典を作ろうとしたとき、正確には詞典と呼ぶのでしょうが、熟語を集めていたら、一冊の辞典全体が「一」の項目で終わってしまったそうですから、これを漢字の全体に及ぼそうというのは考えただけでもたいへんだったでしょう。

22 ツバメ

田所さんの家にツバメがやってきたのは七月の上旬、暑い夏の始まりのころでした。正確にいうと、ツバメは巣から落ちたのか、飛び始めてまもなくも不調になったかで家の近くの片すみに落ちていたのを近所の方が気づいて、どうしようかとおもっていたところに、田所さんが通りかかったという状況でした。

「田所さん、ツバメを育てたことありますか」

「ツバメはありませんが、すずめとかひばりとかでしたら、こどものころに育てたことがあります。」

「私は一度もないのです」

「元気になるかどうかわかりませんが、育ててみましょうか」

「お願いできますか」

ということで、田所さんの家にやってきたのです。

 一日目、ツバメは全く不調で、水も飲めず、田所さんが指に水をつけて口のそばにもっていくと、少しだけ口を動かしてすするという程度でした。首は羽の中にうずくまり、尾羽もだらりとしていて、目もまぶたが半分閉じていました。田所さんが見ても、かなり危険な状態でした。夜になってみんながそろっても、なんとなく不安が部屋の中に漂っていました。ツバメは臨時に作られた果物かごの巣の中で柔らかい布の上ですでにぐったりと眠っています。

 二日目、田所さんは近くのホームストアに行って、いちばん食べやすそうな掻き餌を買ってきました。ツバメは昨日より少し元気そうで、首が少ししゃんとしてきました。

「これなら元気になるかな」

掻き餌をあげると、なんと一口二口ちゃんと食べてくれます。あまり一度にあげるとおなかをこわすので、時間をかけて少しずつ与えました。首がすっきりと上がり、重いまぶたも見えなくなりました。

 三日目、掻き餌をよく食べ、鳴き声もはっきりと出せるようになり、危機から抜け出たことがはっきりしました。

 ツバメは小さくても羽が大きいのです。さすがに渡り鳥です。果物かごの上に洗濯かごをかけてツバメが外に出ないようにしていたのですが、中でばたばたと羽を動かし、今度は羽を痛める心配が出てきました。そしてよくみるとツバメは左羽と左足を痛めていたのです。上にかけてある洗濯かごにつかまるのですが、そのとき左羽がだらりと下がり、左足は中空にぶらんと伸ばしたままです。明らかにその部分を痛めています。でも全体に動きがすばやくなってきました。

 四日目、あまり羽を動かすので思いきって洗濯かごを取り外しました。ツバメはばたばたと居間の中を飛び回りますが、危うく天井にぶつかりそうになったりして、まだあまりうまく飛べません。そのうち食器戸棚の上が居心地いいらしく、そこにじっとしているようになりました。

 五日目、部屋の中をくるくると上手に旋回するようになりました。左羽も左足もどうやら回復したようです。

 このころから田所さんはつばめの生態に興味を持つようになりました。というのはツバメが田所さんにすっかりなついて、まるで人間のこどものようにふるまうことがわかってきたからです。たとえば、餌をやろうとすると、ツバメはそれに気づいて、田所さんのすぐそばまで飛んできて、ときには田所さんの腕につかまろうとまでするのです。餌が欲しいときはぴいぴいとよく鳴きますが、おなかがいっぱいになると、餌を出しても、後ずさりして首を横にしてしまうのです。

 田所さんはそのころ、七月の終わりに行われる納涼祭のフリーマーケットに出すリースを少しずつ作っていたのですが、ツバメにはそれがたいへんおもしろいらしく、作業しているすぐそばまでやってきて、田所さんの腕に何度かつかまろうとするのですが、腕がこまかに動いているので、そこに止まるのはあきらめて、そばにあった扇風機の上に止まってこちらを見ているのです。

 愉快なのは田所さんが食卓で新聞を見ていると、やはりそれがたいへん気になるらしく、しきりにあたりを旋回して、なんとかして新聞の先端に止まろうとするのですが、なかなかうまくできません。やっとスピードを調節して止まることができたのですが、新聞はやわらかくぐらぐらしてとても止まってはいられません。しかたなくぱっと飛び立つともう二度と新聞に止まろうとはしませんでした。

 また田所さんが、インターネットでコンピュータに向かい合っていると、早速やってきて田所さんの右肩につかまり、外からはまるでツバメもいっしょにインターネットを見ているように見えました。

 ここまでくるともう部屋の中に閉じ込めておくのはかわいそうです。みんなでもう外に放してやろうかと話し合いました。

 こうしていればかわいいけれど、ツバメはやはり外がいいのだから、明日放そうということになりました。でも羽は大空を自由に飛ぶくらいにほんとうに丈夫になったのだろうかというのが、たったひとつの心配でした。そこで翌日というのは、ツバメが来てからちょうど一週間目の朝、田所さんはありあわせの板で、窓の外側の上のところにツバメ用の休憩所をつくってやりました。といっても、小さな板を一枚接着剤で窓の枠に張り付けてやっただけですが。

 「さあ,飛んでいいよ」と田所さんはツバメを板の上に乗せてやりました。そこにいたければ、じっとしててもいいんだよというつもりでした。

 田所さんがそっとツバメを板の上に置くと,瞬間ツバメはふわりと中空に浮かんで、さあっと大空高く舞い上がり、風に乗って旋回したかとおもうと、あっというまに田所さんの視界から消えていってしまいました。ツバメはほんとうに元気になっていたのです。

 それからしばらく、朝になると妙さんは庭に出て「ぴいちゃん、ぴいちゃん」と空に向かって呼びかけていました。ほかのつばめがときどき空を飛んでいきますが、ぴいちゃんは二度と田所さんのところに戻っては来ませんでした。それはつばめにとって、幸せなことだったのでしょうが、田所さんも妙さんもしばらくは、家族が一人いなくなったような感じがしてなりませんでした。

 ところが、高彦くんも安彦くんも、「それが当然だよ」といって、少しもさびしがりません。二人の気持ももしかしたらあの夏子のツバメのようなのかもしれません。

23 贈り物

 田所さんも妙さんも花が好きなので、いつもというわけではありませんが、誕生日のときなどにこどもたちが花を買ってきてくれることがあります。田所さんはどちらかというと青系統の花が好きですから、兄弟もそのようなものを選んで買ってきてくれるのです。

 今年は二人で六月のお父さんの誕生日には、青紫のサフィニアの花を,七月のお母さんの誕生日には、ジャックと豆の木の苗を買ってきてくれました。サフィニアはていねいに芽を摘んでいると、いつのまにか大きく伸び広がり涼しげな色でたくさんの花を咲かせています。ジャックと豆の木も枝を広げて順調に育っています。

 植物の成長はほんとうに不思議で、伸びるときはどんどんと伸びますが、伸びないときはまったくといっていいほど伸びません。花や木を見ていると、人間とあまりにもよく似ているのに驚きます。というより系統的には人間が植物のずっとあとを歩いてきたのでしょう。

 植物がよく育つにはよい土がなくてはなりません。その土もすぐにはよくなりません。時間をかけて、年月を経て、気がついてみるといつかすごくよい土になっているというふうなものなのでしょう。

 冬はそのきびしい寒さに耐えなければなりません。幹がしなうような北風の日々を過ごしていかねばなりません。そして気がつくと、いつか陽射しが春の暖かさになっているのです。

 雨のうるおいと暖かな光、それに決して過激ではない栄養、病気を治してくれるいくつかの薬、それらがいつも途絶えることなく続いていなくてはなりません。

 そして結局は注がれる愛のこまやかさになるのでしょうか。やさしく見守り続けるまなざしがきっと必要なのでしょう。人の世とのあまりの類似、あまりのアナロジーに庭を歩きながら田所さんはほとんど茫然としてしまいます。

 今年の冬はきついのでしょうか。人生の冬が大概そうであるように。だからせめて冬になったらまた部屋を飾るリースを作りたいと、田所さんは思います。過ぎ去った人生や、花の美しさをいつまでもとどめるようにというのではありませんが、田所さんはリースを作っている時間が好きなのです。

24 麦笛

 季節感覚のずれに田所さんはときどき途惑ってしまうことがあります。田所さんがそのことをもっとも強く感ずるのは、夏の終わりです。田所さんが中学から高校のころ、夏の終わりはとうもろこしを焼く香ばしいにおいとともにありました。残り少なくなった夏を惜しみながら、友達の家から帰るころ、夕餉の煙が空に漂い、どこからともなく焼きとうもろこしの香ばしいにおいがしてくるのでした。

 夏の始まりも別の意味でとうもろこしとともにありました。夏の始めにはとうもろこしの苗はまだ小さく、田所少年が畑の中の道を歩いていくと、そのあちこちに背のまだ低いとうもろこし畑がみえ、それが夏休みの進行とともに急速に背丈を伸ばしていくのでした。そして八月中旬の旧盆を終えるころ、そろそろ収穫が始まるのです。季節の移ろいと人の歩みとがあんなふうに歩調を合わせていたことは、今から思えばつかの間ののどかな時代であったのかもしれません。その後高度成長社会が始まります。物質的な豊かさがそのまま人々の生活を豊かにしてくれると、多くの人が信じました。田所少年もその一人でした。その後そうした無条件的な幸福感は次第に消えてゆき、ニュースの中に公害という耳慣れないことばが頻繁に登場するようになっていきました。

 麦の秋ということばがそのころは生きていました。中学校の朝礼で田所さんは、登校の途中で麦笛を作らないようにという注意を、何回か聞きました。農家の人が一年かけて作るのですからということばには、生徒はみな日々の麦の成長を見ていましたから、確かな重みがありました。田所少年も麦の種まきのことまではさすがに知りませんでしたが、寒風の吹く冬の畑に、麦踏みの人がその独特な弾むようなリズムで麦を踏んでいく風景を、飽きずに眺めていたものです。そして田所少年も二三度は実際に麦踏みをしました。農家でなかったのでどうしてそうなったかはもう思い出せませんが、今ではなつかしさを超えて、そうした記憶に珠玉のような輝きを感じます。なぜなら広大な畑地を、はるか遠方に山々の連なりを見ながら、どこまでもあの柔らかい大地を踏んでいくというようなことは、もし願ったとしても、今では実現できる場所がきっとずいぶん限られてきているでしょうから。

 それにしても田所少年は麦笛を鳴らすのが下手でした。爪の先できれいに麦を割いたつもりでも、澄んだ音はめったに出ませんでした。その麦笛ももう随分長い間聞いていません。

25 外国語

 妙さんは新しい外国語を勉強しようかと思っています。妙さんは車で会社に通っていますから、あらためて運転の時間を有効に使いたくなったからです。大学の第二外国語でドイツ語を学びましたが、文法も含めて今ではほとんど忘れてしまっています。ただ外国語の勉強は大事だと思っていますし好きでもありますから、毎日夕食の準備をしながら、ラジオで英会話の講座を聞くのは、妙さんの大切な日課の一つになっています。

 夏も半ばを過ぎたある日の夕食の後で、紅茶を飲みながら妙さんはこんなふうに田所さんにたずねました。

 「秋になったら新しい外国語を始めようと思うんだけど、何がいいと思う」

 自分が勉強するのではないのですから、これはかなりむずかしい質問です。でもこういう質問は二人の間ではよくなされます。実力はともかく、田所さんが歴史や外国語が好きなことを妙さんはよく知っているからです。質問といえば、かつてこんなことがありました。

 二人の兄弟がまだ小さかったころ、隣の市の書店に行くと、そこに自動式のクイズチャレンジ機が置いてありました。全問正解を二回続けると、外国旅行ができるのです。ここまではちょっと自信がありませんが、七問正解が二回だと、五百円の図書券が一枚もらえるのです。兄弟はこういうチャレンジが大好きです。それにこのくらいならなんとかできるかもしれません。兄弟が力を合わせて解答するわけですが、むずかしいところは田所さんが手伝います。

 一度だけですが、途中まで全問正解で進み、みんなどきどきしましたが、最後から二問目で間違えてしまいました。ほんとうに惜しいことでした。しかし田所さんはそんなにがっかりはしませんでした。田所さんは実は飛行機が苦手だったのです。図書券は確か二回くらいもらいました。これでおとうさんの実力が幼い兄弟にもわかってもらえました。

「ふうん、おとうさんもなかなかすごいんだね」

二人はそんなふうに評価してくれました。

 田所さんにしてもこれは楽しい経験でした。でも逆に自分の弱点もよくわかりました。料理の材料とか金融や経営の細かい知識はほとんど手が出ませんでした。歌やファッションの現代の流行も苦手でしたが、これはもう仕方がなかったでしょう。

 そんなわけで、田所家のシンクタンクとしては、妙さんの質問にも答えなければなりません。少し考えていると、妙さんが「フランス語やドイツ語でもいいんだけど、一度もうしてるしね」と言います。確かに一度したのです。田所さんもなにかの機会に妙さんが勉強したドイツ語のテキストを見せてもらったことがあります。大掃除のときだったかも知れません。小型のテキストにこまかに日本語訳が書きこんであります。

「ふうん、よくやってたんだね」

「でももうみんな忘れちゃったわ」妙さんはあっさりしています。

 フランス語は自分で独習したようです。そのテキストも一度見たことがあります。田所さんがそんなことを思い出していると、妙さんが、「中国語は漢字ばかりでむずかしそうだしね」と続けます。

 「それじゃあ韓国語にしたら」とふとそう思いました。「韓国なら近いし、そのうちみんなで行けるかもしれないよ」

 韓国語なら田所さんもかつて少し勉強しました。より正確には、二十代で「朝鮮語」を、三十代で「韓国語」を勉強したのです。教えてくださった二人の先生はともに若くして亡くなりました。なにかパイオニアの宿命のようなものを田所さんは今も感じています。

 二十代で朝鮮語を勉強したとき、学習書はまだ数えるほどしかありませんでした。辞典も養徳社のものを除いたら、普通の本屋さんでは宋支学先生の小さな辞典が一つあっただけでしょう。田所さんが使ったテキストも宋先生の『基礎朝鮮語』でした。三十代で韓国語を勉強したときは、学習書も辞典ももうたくさん出まわっていました。

 朝鮮語を教えてくださった樫町先生は、朝鮮史が御専門でした。昼間大学の非常勤講師として朝鮮語を教え、夜は定時制高校の先生をなさっていました。朝鮮語の文法を説明されるとき、「ロシア語文法を援用する人もいるんですよ」と述べておられたのが印象的でした。朝鮮語研究史の忘れがたい一面でしょう。

 三十代で韓国語を学んだとき、もちろんもうそういう説明はありませんでした。そのかわりに単純化すれば、伝統的な文法と新しい文法とが出てきていました。田所さんはどちらかというと伝統的な文法で学びました。教えてくださった長田先生が分厚い韓国の資料を参考にしてくださっていたのをおぼえています。同時に新しい文法体系による成果も整い始め、その整然した説明による辞典や学習書も本屋さんに現われるようになっていました。

 長田先生は優しく静かで、田所さんは先生に深い敬意を抱いていましたが、こと学習に関してはたいへん厳しいところがありました。ある日の授業で田所さんは鼻音を含むフレーズを発音することになりました。出ている学生の数が少ないのですぐにあてられるのです。ところが田所さんが何回読んでも先生はよしと言ってくださらないのです。それまで発音であまり悩まなかった田所さんは困惑しました。とうとうその場では先生は田所さんの発音を認めないままに終わり、次の学生へと移って行きました。「韓国語の鼻音はむずかしいから」という先生のことばが今もはっきりと残っています。

 妙さんは紅茶を飲み終えながら、「ありがとう、おとうさん。それでかなりいいと思うけど、もう少し考えてみるわ」と言って、どうやら韓国語を選ぶことにかなり大きく傾いているようでした。

26 キャンプの準備

 夏になると四人はキャンプに行くことを思って楽しくなります。準備のために家族には大まかな役割分担ができています。田所さんは大きな荷物の準備、妙さんは食料の準備、高彦くんと安彦くんは細かな道具やゲームなどの準備です。

 行く場所はいつも決まっています。ときには違った場所に行ってみたいと思うこともありますが、そして事実そうしたこともありましたが、そうするとその夏はなにか大事なことを忘れたままで終わってしまったような気がして、結局いつもの場所に行っておけばよかったということになるのです。

 今年もそこでいつもと同じ場所、霧追高原に行くことになりました。この高原は名前のとおりによく霧が出ます。ひどいときには朝起きるとまったくなにも見えないことがあります。初めてその光景に接したときは、この霧はほんとうに晴れるのだろうかと不安になりました。でも朝の八時を過ぎるころから空が澄んできて、いつのまにか霧は完全に消えてしまいます。

 この高原の南斜面にキャンプ場があります。そのなだらかな斜面のはるか遠く南方に、木立が低く続きその背後に雄大な山並みが広がっています。四人はこの風景がたいへん好きなのです。テントを張るサイトも毎年決まっています。白樺の大きな木が二本あり、その回りをやや低い白樺が幾本かサイトの周りを囲んでいて、明るくそれでいて落ち着いていられます。四人はここに着くと、なにかしらほっとして、今年も来たねと思うのです。

 キャンプの準備は、実際のキャンプとはまた別種の楽しさがあります。たとえばランタンを点検し、白灯油を一缶購入しなければなりません。田所さんはむかしからこのランタンが大好きでした。もっとも田所さんがこどものころは、きっとこうしたランタンは普通では購入できなかったでしょうから、林間学校のイラストやなにかを見て、あるといいだろうなあと想像していたのではないでしょうか。それが今では手軽に買えるようになりました。田所さんのところには、ツーマントルのものがひとつとワンマントルのものがひとつ、計二つのランタンがあります。どのキャンパーも似たようなものでしょうが、そのほかに電池式のものがふたつあります。キャンプで夕暮れが近くなるとマントルを空焼きして、夜の準備をするのは田所さんの役目です。兄弟二人は水を汲んだり、野菜を洗いに行ったりします。それらが一段落すると二人は夕食の炭火焼のための炭起こしに精を出します。二人ともこの作業が大好きです。火は人間の文化の象徴なのかもしれません。火が赤々と燃えると、ほっとします。安彦くんに至っては、夕食のあとまで火を起こしています。小雨が降ったりすると、傘をさしながら火を起こしています。それほど楽しいのでしょう。

 田所さんの居間の壁には、2000ピースの大きなキャンプのジクソーパズルが掛けてあります。日が落ちてテントの前では焚火がたかれ、その煙がゆっくりと空へ上って行きます。テントの先端にはランタンがつるされていて、これから食事が始まるのでしょうか。雁が二羽ねぐらへと帰っていきます。空には夕映えが微かに赤く残り、上空はもう暗い紺に染まっています。

 田所さんはこのパズルを、まだアパートにいるときから兄弟とよく行くおもちゃ屋さんで見て、いい絵だなあと思っていました。でもそんな大きな絵を掛ける場所はアパートではかなり困難でしたから、お店に行ったとき見るのが楽しみなくらいでまさか実際に組み立てるようになるとは思いませんでした。しかし実際このピースを組むのはたいへんでした。その作業の中心になってくれたのは、いつでも妙さんです。妙さんがジクソーパズルが好きなのはもうみんなが知っています。こどもたちが小さいときから、パズルを組むのに真剣になるのです。夕食が終わると、休むのもそこそこにして組み始めます。組み始めたらもう止まりません。田所さんはこれで、中毒症状というのがよく理解できるようになりました。「ああもう少しなんだけど」とか言いながら、どんどん時間が過ぎていきます。「もう止めよう!でももう一つ」と言ってなかなか床から顔を上げません。

 田所さんはもともと自分が買ってきたのに、早々にリタイアしています。兄弟二人はおかあさんを援助して、ときにはたいへんむずかしいピースを組み上げて、みんなから喝采を受けることがあります。特に安彦くんはこうしたものが得意です。トランプの神経衰弱で彼にかなうものはいません。

 とにかくこうして、この家に越してきた最初の冬休みの大部分を使って、この大きなピースは無事完成しました。田所さんはこのテリー・レドリンさんのキャンプの絵をいつも眺めながら居間で過ごしています。

 キャンプはいつも、夏休みが始まると早いうちに出かけることが多いので、七月に入ると準備を進めていきます。ランタンの芯と白灯油、それにバーベキュー用の炭は毎年買わなくてはなりません。今年はそれに手ごろなものがあれば、タープを支える棒もほしいと思っています。隣の市のアルペジオという山の専門店に行くのがこういうときの慣わしです。お店には何でもそろっていますが、逆に買い過ぎに注意しなければなりません。新しくてよい商品が毎年次々と出てくるのです。そういう時代の変化を見るのが田所さんは楽しみでもあります。

 お店ではタープ用の棒も含めて、必要なものがそろいました。車に乗って、「一学期も無事終わったことだし」と田所さんが運転席から話しかけると、兄弟は後ろの席から「そうそう」と元気な声でうなずきます。今日はみんなが元気で夏休みまで来られたお祝いに、久しぶりに外食することになりました。

27 コンピュータ

 田所さんが初めて個人用のコンピュータ、すなわちパソコンを持ったのは、1980年代の後半でした。それはシャープのX1という8ビットのもので、CPUはザイログ社のZ80というものでした。OS、オペレーティング・システムはディジタル・イクィップメント社のCP/Mという8ビット用のものが使われていました。このOSはパソコンを始めたばかりの田所さんにとって、ちょうど手ごろな扱いやすさで、よくわからないなりに楽しむことができました。それはまさしく楽しむというのにふさわしく、そのコンピュータを使って実用に供するには、初心者の田所さんから見ても明らかに力不足と思われました。その代わりにこのコンピュータには、プログラミング言語の簡単なパッケージがいくつか用意されていて、それらがかなり低額で求められることでした。ですから田所さんも、このX1付属のBASICや、カタログで購入したC言語やPrologなどを使って、簡単なプログラムを作る楽しさをおぼえました。そのころは本屋さんに出かけると、きっとはやりだったのでしょう、簡単なプログラミングの本がたくさん出ていました。田所さんもそれを買ってきて、オセロゲームなどの簡単なゲームなどをいくつか作ったことをおぼえています。しかし結局それはそれだけのもので、どれも実用にまでは達しないものでしたが、コンピュータの内部を直接にのぞいているような楽しさがありました。

 時代が急激に変化していくときでした。そのことをはっきりと示す指標を田所さんは自分の経験として持っています。それは1980年代の初頭で、田所さんが結婚して間もなくのころでした。昼間働いたあと、週に二三回は夜大学へ聴講生として通っていたころです。まだワープロもパソコンも一般の人にとっては身近なものではありませんでした。しかしのちにはっきりするように、「紙に書く」文化から「キーボードへ打つ」文化へと人々の欲求が徐々に移りつつあったときだったと思われます。まだ当分は満たされない「キーボードへ打つ」欲求を実現するためだったのでしょうか、一時カナタイプライター文化とでもいうものが登場していました。結果としてその時期は決して長くは続かなかったのですが、一定の人々の支持を受けていたように思われました。たぶん京大式カードや川喜多式ブレイン・スト-ミングが社会的に認知されたあとに、その事務的処理を具体化する方法として、カナタイプライターが登場したのではなかったでしょうか。

 田所さんは京大式カードを使っていたわけではありませんが、そこにあるなにか機械的な処理に心ひかれたのでしょう。市中のタイプライター学校に通ってカナタイプの練習を始めました。学校は好きな日の好きな時間に行けばよく、教室は市中の細高いビルの五階か六階かあり、生徒はたぶん田所さんを除いて全員女性でした。教室に入るとテキストに従ってその日の練習メニューが与えられるのですが、そのあとは自分でそのメニューをこなすだけでした。それを全部終えると先生が簡単なコメントを与えてくれ、出席カードに印を押してもらい、その日が終わります。払い込んだお金で規定の回数分だけ授業を受けられる、そんなシステムでした。

 この教室で田所さんのいちばん印象に残っていることは、普通の英文やカナのタイプライターではなく、大きな和文タイプを練習している女性の姿でした。田所さんが実用からやや離れたところでゆっくりと練習しているのとは違って、和文タイプの女性は、どの人もはるかに真剣で活字を拾う大きな台に目を凝らしていました。それを専門にして生きていこうという決意のようなものを田所さんは、その姿から感じました。

 田所さんは確か規定の回数を少し残してこの教室に通うのを終えました。カナタイプの概要がもうわかったからでした。それを極めるにはもう少しまとまった時間が必要だったでしょう。田所さんには、大学での聴講がありましたので、今はそこでやめることにしました。しかし田所さんも遊びで行ったわけではありません。その当時はカナタイプに一定の将来的な実用性を感じていたのです。それはその後のワープロの急速な普及で跡形もなく消えていくのでしたが、その当時に一般の人がそうした近未来の趨勢を読み取ることはかなりむずかしいことだったでしょう。だからこそ和文タイプの人は、あんなに真剣に教室で練習していたのです。田所さんも教室に通う前に、四万円ほど出して、デパートの文房具売り場でオリベッティの瀟洒なカナタイプを購入していたのです。田所さんもやはり真剣だったのです。

 その後時代は急激に変貌します。いつのまにか新聞の広告欄からタイプライター教室の宣伝は全くなくなりました。田所さんが教室に行ってから、二三年のうちにです。たぶん学校自体も消滅したか事業の方向を変えざるを得なかったでしょう。田所さんの通った学校の宣伝も全くなくなりました。ある日田所さんは、自分が通ったあのペンシルビルに行ってみました。予想通りにというか、心配してた通りにというか、教室はすでになくなっていました。一つの感慨が田所さんのうちに残り、それはかすかに今も残っています。あんなに真剣に和文タイプを学んでいた人達はその後どのような仕事に進んだのだろうかと。学んだことは決して無駄にはならなかったでしょうが、それにしても時代の変化があまりにも急激過ぎました。歴史はいつもこのようにして変化していくのでしょうか。

28 時代

 時代の変化をその只中で知ることはむずかしいことだと、半世紀を生きてきた田所さんはいくつかの実感をともなって思わずにはいられません。人がちょうど雲の中を歩むときに、その下か上かならば苦もなくわかるに、中にいる人はそこに雲が存在することに気づきにくいのと同じです。 

 田所さんがコンピュータの基礎を学び始めたころ、一つのことに気づいてしばらくの間は茫然としてしまいました。それはコンピュータ言語を含む多くのソフト群が、どうやらアメリカにおいて1960年代から1970年代にかけて、陸続と生まれていたらしいということに気づいたときでした。1960年代末といえば時代が騒然としていたときで、田所さんの大学時代のことです。それを言い訳にすることはできませんが、田所さんは大学でほとんど勉強をしませんでした。ですから彼は三十代でもう一度大学に戻ることにしたのです。他の国々の若い人々もまた全体に騒然としていたと思いこみたいところですが、社会が騒然としていたこととその中で個人がどのように生きていたかということとは、当然のことですが直接的にはつながっていないのです。臆病な田所さんが自己に対する厳しい決断をすることもなく大学や市街でうろうろしていたころ、アメリカ合衆国の決して少なくない若い一群が、時代の波に飲みこまれることなく、ひたすら研究に努めていたらしいことを、田所さんは、コンピュータ技術の進展を跡づけるいくつかのアメリカのエッセイを読んで知ったとき、ほとんど悔恨に近い思いを抱くようになっていました。なぜなら田所さんの1960年代末についての主観的でパセティックな時代認識は、それから二十年近いのちになって、すなわちコンピュータが社会の表面に出てきたときになって初めて、井の中の蛙的な小さな放浪に過ぎなかったのではないかと思えるようになっていたからです。

 その悔恨の中心に何があったかは、今やもうはっきりしていました。60年代末に一人の若者であった田所さんは、自らが今何をなすべきかを全くといってよいほど知らなかったのです。基礎的な高校での勉強と相応の受験準備のあと、大学に入って一挙に広がった知的社会に直面したときも、当時の田所さんには自らの判断で歩むことは困難でした。ニュースや新聞や、そのころはまだ色あせなかった知識人という一群の人々のたぶん誰かのうしろについて、田所さんは自らの知的世界を形成していたのです。当時の田所さんにとってはそれが精一杯であったのかもしれません。そこまでは仮に認めることにしましょう。でもそのあとが悪過ぎました。田所さんは二十代前半で形成した価値を、後生大事にそれがあたかも自分の純粋さの証明であるかのように持ち続けてきたのです。根本的な批判や懐疑を自らに向けることはしなかったのです。三十代に聴講生になったときにもやはりそうでした。ふたたび大学で、今度はまさしく自らの意思で歴史や哲学や語学を学び始めたと思っていたにもかかわらずです。

 ひとことで要約するならば、田所さんの1960年代末はアメリカ映画の「いちご白書」の時代だったのです。一人一人がどんなに片隅にいても、充分にヒロイックでした。なぜならば意識としてかかわったたぶんすべての人が、自己のためにではなく他存在のために行動していたからです。なにが他存在であったかは人によって異なっていたでしょう。とにかく自己のためにではなかったのです。それは一種清潔な不遜さであったがゆえに、田所さんの中でながく壊れにくく残ったのです。

 1980年初頭、田所さんの前には圧倒的な大きさで、アメリカのコンピュータ理念が存在していました。理念と言ったのは、それが技術だけでもなく、文化とも違う、学問とも違うものだったからです。それは何か巨大な複合物でした。その根本には、どのような権威にもよらない個の主張がありました。田所さんは、いくつかのコンピュータ雑誌を読みながら、牧場のゲイトウェイや納屋から生まれたコンピュータ製品とその基礎となっている種々の言語を含むソフトの集積に圧倒されていました。しかしこれもまた、新しい他者への依存なのだろうかと、田所さんのかすかな批判精神は問いました。しかしコンピュータにかかわるこの知的集積体は決して一朝にできるものではなく、またその継続はいかなる形でいかなる人たちによってなされていたのか。答えは明瞭でした。1960年代から、たぶん主に田所さんと同じ若者たちによって、途絶えることなく、またあの混沌とした「イチゴ白書」の世界を少しも否定することなく続けられてきたのです。混沌と矛盾があったことは事実でしょう。そのことを無視して、ただ混沌という現象だけを見てその時代を否定する人がいますが、その立場には田所さんは今もなお組みしません。ただその時代の生き方で補えることを考えるならば、そのとき否定だけではなく同時に、未来に向って時代を実り豊かに生きようとする方途もあったのです。この未来に向ってという観点が田所さんには決定的に欠落していました。この点で田所さんの時代的失敗は決定的でした。自らが未来に向ってどのように生きるかということを掘り下げて考えることなく、自己に直接責任のない過去否定に自らの主要なエネルギーを注いでいたことは、今となってはもはやどうすることもできないことですが、苦い悔恨を残さずにはおきませんでした。ボブ・ディランの「風に吹かれて」はその意味でも、実に時代象徴的な歌でした。感傷的に「風が知っているだけ」にしてしまってはいけなかったのです。別にディランが悪いわけではありません。ディランは一つの時代を歌いきりました。あとは田所さんがその中でどのように生きるかだったのですから。

29 強制終了

 コンピュータを使っているとときどき強制終了の表示が出て、困ることがあります。だいたいはうまく回避することができるのですが、ときには一切の操作を受け付けなくなってしまうことがあります。そのときはまさしく強制終了せざるを得ず、そうすると画面が真っ白になり、最初の画面に戻ってしまいます。田所さんも最初は急いでキーを操作して画面を真っ白にしたことが何回もありました。

 田所さんの場合、強制終了が表示されるのは、ワープロを用いているときで、それもそうなるときの状況はいつもだいたい決まっています。ワ-プロのキー操作がそれほど早いわけではありませんが、それでも指使いによってはある程度早くなることがあり、その二つの指の打鍵が時間的にほとんど重なっときのある種の場合に(全部と言うわけではありません)強制終了の表示となることが多いようです。思うに,同時打鍵によってコンピュータにほとんど同時に指令が出されたとき、コンピュータの頭脳がどちらの仕事を選んで行えばよいのか、混乱してしまうからではないでしょうか。

 それにしてもワープロなどのソフトは、ウインドウズなどのOSの上に載っているわけですから、もしも指使いなどで真正の誤作業が仮にあったとしても、OSには直接響かず、かなり安全度が高いはずなのに、強制終了などの一種の誤動作回避表示がなされてしまうのです。別にコンピュータ本体が悪いというふうにも言い切れません。たぶんにソフトの問題もあるでしょう。また再起動すれば普通に動くのですから。しかしコンピュータが自己判断に迷ってしまう状況が決して少なくない回数であることは事実です。ですから田所さんは、コンピュータ的なシステムが、ある条件のもとではかなり不完全になることがあるのを、身近な経験として知ってきました。

 田所さんは1980年代半ばには、半分以上は実験的なものであった8ビットのコンピュータを使っていました。OSはデジタル・イクイップメント社のPC/Mというものでした。当時としては、優れたOSであったと思われます。そこに5インチの今ではもう使われなくなった薄いフロッピーを入れるのですが、そのフロッピーディスクドライブがときどき暴走を起こすのです。いつまで経っても回転し続けるのです。そこでやむなくメインスイッチを切ってドライブを終了させることになります。そういうことが何度もありました。ちなみに同じフロッピーディスクドライブを使っても、ソフトがBASICのときはそのような暴走は一度もありませんでした。PC/Mの方がOSとしてはずっと複雑でしたから、そのとき使用していた8ビット機では機能的な処理が苦しかったのかもしれません。田所さんの知識では,そうした暴走の真の原因はもちろんわからなかったのですが、コンピュータには誤作動がかなりあることだけは、大事な経験として持ち続けてきたことになります。

 ですから、現在も放送や新聞で、高度な科学応用システムなどの安全性が問われるとき、関係した部門のたぶん広報担当者が、このシステムはきわめて安全なものですと言い切っているのを見聞きしていると、その言明自身がすでにきわめて非科学的であることを感じずにはおれません。ですから、そのシステムにもし事故が発生したりすると、担当者はこのシステムでは全く及びもつかなかった事例ですなどといつもいつも全く同じように答えるのです。これはその人が科学に携わる人ならば、言いかえればそのようなシステムの安定性・不安定性を知っている人ならばということですが、まったく人をだます欺瞞以外の何物でもないと思います。

 もともと科学システムに万全などあろう筈がないのです。低い確率でいつも事故は存在するのです。「全くおよびもつかないこと」がいつでもある一定の確率で存在しているのです。パソコンのフロッピーディスクドライブはかつて原因不明で暴走し、今もワープロソフトが突然に強制終了に至るのです。電気信号の流れである以上,これからもそれが起こる蓋然性を無にすることはできないでしょう。信号そのものはいつも流動しているからです。すべては電子の流れなのですから。システムの基盤のほとんどにコンピュータが介在する現代は、その点からきわめて不安定なものの上に存在するものです。膨大な資料がコンピュータ打鍵の二三操作で完全にこの世界から消滅してしまうのです。これがたとえば原稿用紙でしたら、一日中庭で焚火する材料として十分なものでしょう。

 コンピュータ社会では、ですから常に失敗を救うフェイル・セイフの施設が必要になってきます。先に述べた強制終了によるワープロ原稿の白紙化も予防するシステムが考えられています。自動バックアップ・ユーティリティなどと呼ばれるものです。これを用いれば、かなり安全度の高いハードディスクに自動的に分単位で不安定な画面上のデータを格納してくれるのです。これもまたひとつの電子システムですから完全とは言い切れません。そこで必要ならばさらに別のバックアップの方法を用意することになります。このようにしていくことでほとんどの、例外的な事故を防ぐことが可能でしょう。それでも一挙にデータが壊滅する危険性がないわけではありません。たとえばきわめて強力な信号たとえばウイルスが,瞬間的にすべての機械内部に入って、データなどを変質させることがないとは言い切れません。何しろ実体は1秒間に地球を何周もする電気信号なのですから。

 フロッピーディスク・システムの暴走は今も、田所さんに多くのことを教え続けています。あまりにも非科学的なことを科学の周辺に従事する人たちが述べたりすると、もっともフェイル・セイフを必要とするのは他ならない人間そのものではないかと、思うことがあります。さらに正確に言うならば、それらの人を含む組織、システムにこそフェイル・セイフが必要でしょう。あるいは現在も広く通行している次のような非科学的な論理をまず正さなければならないでしょう。

「このシステムは完全ですから、それを予防する方法は必要ありません。」

「この完全なシステムに事故が起こったのは、全く予期できないことでした」

「全く予期できないことでしたから、責任はありません」

30 再会

 田所さん一家が山形に旅行したのは、八月の下旬でした。四泊五日、全行程を車で移動し、運転は田所さんと妙さんが交互にしました。旅費を少なくするために、前の二日は自炊の町営の貸別荘、後の二日は国民宿舎を利用しました。

 一日目は圏央道から関越自動車道に入り,東北自動車道を村田まで北上し、山形自動車道に入り、山形北で降りて山寺・立石寺に上りました。その日は月山のふもとの西川にある町営の貸別荘に宿泊。二日目は月山に登る。快晴の一日でした。降りてきて同じところに宿泊。三日目は移動日で山形自動車道が一部未開通のため国道112号線を北西に進み、湯殿山に心惹かれながら直進、庄内平野に出て鶴岡で昼食、致道館と鶴岡城址を見る。ふたたび国道112号線に乗り日本海側を北上、遊佐町の国民宿舎で宿泊。四日目は鳥海山を予定の七合目まで上りそこで昼食を取って下山。ビジターセンターを見学してから宿舎に戻ると激しい夕立。良い選択でした。五日目はまた112号線を南下,途中から国道7号線に入り、日本海沿いを走ります。新潟市に入って、北陸自動車道に新潟空港から入り長岡からは関越自動車道、スキーで毎年三月に訪れる湯沢を横に見ながら進み、鶴ヶ島で圏央道に入り午後二時過ぎに無事自宅に到着。全行程1150キロ、太平洋側から日本海側へ横断する、久しぶりの長旅でした。

 一日目に行った山寺へは、田所さんは大学を終えてまだまもないころ、最初に勤めた会社の夏の旅行で一度訪れていました。今からもう三十年ほど前になります。もちろんまだ独身で結婚のことなどほとんど考えることもなく、電気部品の在庫管理の仕事に夢中でした。1970年代の始め、大阪で万国博覧会が開かれた直後で経済は大きく飛躍し、田所さんも含めて多くの人が大量消費社会の到来にいやおうもなく飲み込まれていたような時代でした。未来学ということばが生まれ、将来の食事は丸粒三つぶを飲めばそれでよいというようなことがある種の現実感を持って受け入れられるような楽天的なところがありました。そのかたわらで水俣病で代表される公害の実態が次第に明瞭になり、ユージン・スミスさんが撮った水俣病母子の写真が時代の進行の一面を予告するかのような強い衝撃を与えていました。

 今年の春になって妙さんがいつものように夏の旅行の計画を立て始めたとき、そのうち一度山形を見て回りたいねという話がすでに何回か二人のあいだで出ていましたから、山形行きはまもなく決定の運びとなりました。場所も山寺・月山・鳥海山があまり迷うことなく決まりました。二人とも山が好きでしたから、山の雑誌に月山と鳥海山の高原湿原のうつくしい写真が載ったとき、田所さんはそれをすぐに購入し大切に保存しておいたのです。二人とも花にも惹かれていましたから、月山の弥陀ヶ原と念仏ヶ原の夏の写真はもはや何のことばもいらないものでした。澄んだ空と草花とさわやかな大気。鳥海山七合目にある鳥海湖の写真もすばらしいものでした。

 こうして訪れた山形は、予想にたがわず家族四人に多くの思い出を残してくれました。なかでも田所さんにとって感慨があったのはやはり山寺でした。一度訪れてからすでに三十年近くがたったのです。その時間の経過がまずなによりも不思議でした。三十年という歳月は一人の青年を四人の家族に変えていました。当時の在庫管理の仕事も充実してはいましたが、自らをもう一度振り返りたいためにふたたび大学で学ぼうとし、その間に仕事も現在のところへと変わり、住まいも幾度か引越しをしながら今の場所でなんとか落ち着きを得ました。二人が働いていたため小さいころは保育園で育った兄弟も、高彦くんはすでにおとうさんの背を超え、安彦くんももう少しで妙さんを超えそうです。時間は確実に流れていきました。

 今回山寺に行って気づいたことは、山寺を開いたのが、円仁というお坊さんだったことです。山内のいちばん古い建物は、小高い岩の先端にある円仁のために造られた赤い小さなお堂であることも今回初めて知ることができました。田所さんがこんなにも円仁というお坊さんにこだわるのは、歴史を学んでいるうちに、円仁が書いた『入唐求法巡礼行記』という本を読んでいたからです。この本は円仁が唐代の中国を旅行した克明な記録です。しかもこの本を知る直接のきっかけが、田所さんの場合は、アメリカ合衆国の駐日大使であったライシャワーさんが書かれた本『世界史上の円仁-唐代中国への旅』に拠っていたことです。ライシャワーさんはフランスのパリ大学で学んでいたときポール・ドミエヴィル先生から円仁の本のことを教えられ、その本の翻訳と研究に二十年間専念されたと述べておられました。田所さんはドミエビル先生の慧眼にも、ライシャワーさんの研究にも深く感動しましたが、それらを超えてもっとも強く心打たれたことは、学問や文化というものが、時代や国境を超えて連綿として受け継がれていくということに対してでした。日本の平安時代の仏教僧円仁・彼が細かに記録した中国の唐という時代・フランスのドミエヴィル先生・アメリカのライシャワーさん・日本で詳細な研究をまとめられた小野勝年先生、それらがまるで見えない糸にたぐられるようにつながっていくのでした。

 この事実がどのようなことよりもより深く田所さんに国際的ということの意味を理解させてくれました。その後田所さんは仕事の合間を縫っては、冬の奈良を訪れるようになりました。そのときの思いは、日本の古い都というものではありませんでした。冬の底冷えのする静まりかえった奈良が、ギリシャのアテネやフランスのパリのように、大きな文化の拠点として田所さんの心を魅了していたのです。

 田所さん一家は山寺を降りて板そばを食べ、おなか一杯になったあと、新しくできた立谷川対岸にある山寺芭蕉記念館を訪れました。真新しいきれいな記念館には、芭蕉や近代の正岡子規の短冊がいくつも展示され、ここでも田所さんはかつて、中国語を学び始めたころ、自らのアイデンティティの揺らぎに対して、大げさに言えばアイデンティティ再建の役割を果してくれたのが芭蕉のいくつかの詩文であったのです。短冊に記された「はせを」という芭蕉自らの署名に、田所さん自身の青春の彷徨が重なっていました。妙さんが「ここにもはせをって書いてある」といぶかしげに読んでいるのにも、「それはね芭蕉のこと」と笑って伝えられる自分の現在を、幸せなことだと思えるようになっていました。

 そしてさらに再会の旅は続くのでした。みんなで芭蕉記念館の見学を終えて外に出ると、その右手にきれいな小公園のようなところがあり、その中心にひとつの石碑が立っているのに田所さんは気づきました。妙さんと兄弟二人は風に揺れる幟をみつけ、なにかおいしいものでもありそうだと、向いのお店の方に行ってしまいました。田所さんは一人、その石碑に近づくと、それはライシャワーさんの記念碑でした。

 そこにはライシャワー夫人ハルさんの訳文で、ライシャワーさんのことばが記されていました。山形は「日本の本来の姿を思い出させる美しい所です。それは、松尾芭蕉が300年前にかの有名な旅行で山形を訪れた時に目に映ったものであり、私自身が20年以上も前に山形に旅した時に感じたものです。」とありました。

 ここに円仁ということばは出て来ませんが、ライシャワーさんが山形を訪れたもっとも大きな目的が円仁の研究にあったことはまずまちがいありません。円仁が山寺を開いたお坊さんすなわち開基であったからです。

 田所さんは三十年前ここを訪れたとき、円仁のことはまったく知りませんでした。その後に歴史を学びなおすこともまだ人生設計の外にありました。まして妙さんと結婚することも二人の兄弟をこどもに持つこともすべては未来のことに属していました。

 そして事実は現在のように進行したのです。  

 田所さんが石碑の前にたたずんでいるうちに、三人が戻って来ました。三人の気を引くようなおいしいものはなかったようです。今日の夕食は宿泊地の外でバーべキューをする予定で妙さんがいろいろな材料を仕入れてきています。幸いに空は暑く晴れ渡って、白い雲がまぶしいくらいです。これならば今日は満天の星空の下で食事ができるでしょう。炭もいつものように兄弟二人が上手におこしてくれるでしょう。

31-01 一冊の本

 近年、郊外型の古書店が増えて、田所さんの隣の市にも今では二軒あるようになりました。古書店といっても、かなり大きなもので、一般の書店と変わりません。少し古い本がかなり安く求められるので、田所さんの兄弟も休日などにそれぞれが自転車を走らせて出かけていきます。帰りにはかなり重そうなビニール袋をさげていることもありますが、総額でもこどもの小遣いで十分まにあうことが多いのです。そんなわけで田所さんもときどきこどもと一緒に出かけていきます。こどもが疲れているときは、おとうさんの車はちょうどいい送迎車になります。こどもと一緒に、ときには妙さんも加わって、それぞれがめいめい好きな本を探すのはなかなか楽しいものです。原則としてはこどもはこどもの小遣いから払うわけですが、それをたまに田所さんや妙さんが払ってやると、こどもは「やったあ」と言って喜んでくれます。金額の多寡とは関係ないのです。その小さな歓声は、二人の大人にとっても楽しいものでした。明るい店内はそれだけでどこか祝祭めいていて、お祭りはやはりこどもが主役ですから、大人もこうして祝祭の剰余を分けてもらえるのだと、田所さんは思っています。

 そんなある日、夏休みも終わりに近い夜、買い物のついでに、兄の高彦くんと一緒に古書店に出かけました。高彦くんは本屋さんが大好きなのです。家についで人生で二番目に長くいる場所だとよく言っています。

 その古書店は今年の春できたもので、その日行くのが初めてでしたが、店舗全体がはなやかな黄色でしたから道路からもすぐにわかりました。店内は思っていた以上に充実していて、田所さんはそこで、なつかしい岩波新書と再会しました。といってもその本をかつて一度買ったというのではありません。高校生のとき本屋さんで立ち読みしただけなのです。それをそんなによくおぼえているのは、やはりその本が高校生であった田所さんの思考の重要などこかに触れていたからなのかもしれません。

 本の表題は『生命とは何か』、著者は物理学者のシュレディンガーです。高校生の田所さんがこの本に注目したのは、たぶん著名な物理学者が生物学の本を書いたからでしょう。シュレディンガーの名前は高校生の田所さんでも知っていたのです。副題は「物理的に見た生細胞」となっています。この辺にきっと惹かれたのでしょうか。高校生の田所さんは本屋の店頭で立ち読みし結局購入しないでしまいました。岩波新書は当時低額で高校生でも容易に買えるものでした。それをかなり長い間立ち読みしたのに購入しなかったのには彼なりの判断が当時あったのです。彼はその本を全体として少し無理があるのではないかと高校生なりに判断したのです。その判断は、現在からすれば、半分は正しく、半分は正しくなかったといえるかもしれません。

 今改めてページを繰りますと、その第五章は「デルブリュックの模型の検討と吟味」となっていて、のちには分子生物学の基礎を築いたことが明瞭となったデルブリュックの存在にいち早く注目しながらも、そこで展開されるのは全体的には細胞の持つエネルギー的な側面のみの検討であり、またそこに一貫して流れる論理は第六章「秩序、無秩序、エントロピー」という表題でほぼ推察できるように、生命エネルギーのマクロ的な検討であり、その後の分子生物学が確立するに至る遺伝子の構造的な面の追及はまったくなされていません。後世から見れば科学史的な限界とも言えますが、それを離れても生物学としては論理の展開に微妙な齟齬が感じられ、それが直感的に高校生の田所さんを立ち去らせた原因であったのかもしれません。

 ちなみに原書の発行は「まえがき」などから1944年、岩波新書としての第1刷は昭和26年、西暦にすれば1951年のことでした。

31-02 一冊の本・続き

 ワトソンとクリックが「ネイチャー」誌へDNAの論文を送ったのが1954年ですから、シュレディンガーの本はその十年前ということになります。高校一年の田所さんがこの本に出会ったのが1963年です。DNA発見から十年目にあたります。ワトソンとクリックを知らず、多分DNAの発見も知らなかったでしょう。知っていれば、シュレディンガーの本の思考の方向の微妙なずれに、高校生であってももっと直接的に反応していたでしょうから。

 しかしこの本をDNA発見の先蹤として位置づけること自体に、きっと無理があるのでしょう。そのように位置づけるよりは、いま古書店で手にした本を開きながら目につく、最終章である第七章の「生命は物理学の法則に支配されているか」という表題やそのあとのエピローグの「決定論と意思の自由について」という表題に示された、文明がもしかしたら機械論的方向へ向うかもしれないという現代の入口にあって、物理学者であるがゆえになさずにはおれなかった主張といってもよいのではないでしょうか。もっと短絡的にのべれば、この本の中には通奏低音的に当時振興しつつあったソ連をはじめとする社会主義国家への拒否とまでは言わないまでも茫漠とした怖れがあったように感じられます。そう見るならば著者の本来の主張を超えて、この本はあらゆる本がそうであるように、著者の意図を超えたところで時代的なポレミックな面を持っていたと言えるかもしれません。しかしそれは、ベルリンの壁が崩壊した今だからこそ、田所さん自身が明確に感じ取れるのであって、高校生のころにはまず全く無理なパースペクティヴであったでしょう。ただ若い直感によって、現代の進行方向を読み取ろうとしていたのかもしれません。

 DNAに関していうならば、田所さんは、ワトソンとクリックよりは、デルブリュックやワシントンや「とうもろこしおばさん」バーバラ・マクリントックなどに興味をおぼえます。そこに田所さんが今、歴史と呼ぶものが確固として存在するからです。歴史は事実の集積ではなく、事実が指し示す方向なのです。今どこを向いているか、どこをめざしているか、それこそが歴史と呼ぶに値するものだと、田所さんは思うようになりました。DNAは発見されたのではなく、生成されたのです。しかしこの考えもまたひとつの見方、チョムスキーなどの生成文法の影響であるかもしれませんが。

 田所さん自身が一人の時代の子なのです。

 またマクリントックについては、柳澤桂子さんがその自伝的書物『二重らせんの私』の中で感動的な出会いを述べておられることを田所さんは忘れることができません。

 こうして古書店は思いがけない大きな恩恵を田所さんに与えてくれました。高彦くんも文庫本を二冊ほど安く求めることができ、二人は充実した晩夏を楽しんで家に帰りました。

32 自由選択

 「おとうさん、ぼくやっぱりドイツ語を取ることにしたよ」

 二学期早々の九月、朝食を食べながら高彦くんはそうおとうさんに話しかけました。どこの家庭でも朝はみんなあわただしいのでしょうが、そうした中で田所兄弟は比較的ゆったりとしています。そこでしばしば田所さんや妙さんが「早く早く」ということになるのですが、むかしから高彦くんは特に食卓での会話が好きなのです。男の子はあまりしゃべらなくて、とよく親同士の会話に出ることばが、田所さんのところではあまり当てはまりません。高彦くんが小学生のときは、学校での先生の家庭での話を逐一話してくれるものですから、妙さんが父母会のとき、「先生の家のことはみんな知ってますよ」と先生に話しますと、楽しい先生でしたから「いやあ、まいったな」と言って頭をかいておられたくらいです。今ではなつかしい思い出です。

 「おとうさんね、第二外国語を取る人は英語がばりばりにできないといけないんだって。二つやるのはたいへんだから。でもぼくはできなくてもやることにしたよ」

 「うん、おとうさんも賛成だよ。新しい外国語って楽しいものね」

田所さんも二年のときに、第二外国語でフランス語を取ったのです。高彦くんはおとうさんが行った高校と同じ所に行っていますから、話がよく通じるのです。立山市にあるその高校を田所さんは三十数年前に通っていたのです。もっとも今は校舎もすっかり新しくなっていますが、全体の感じはそのまま引き継がれているようです。この高校では二年生になると、第二外国語を自由選択で取ることができるのです。そこで田所さんはむかし、フランス語を選択しました。

 「おとうさんも、ドイツ語にしようか、フランス語にしようか、迷ってね、結局フランス語にしたけど」

 田所さんは、そのとき使っていた朝倉季雄先生のフランス語の初級のテキストをよくおぼえています。その後も永く愛用して、今でも後に買い換えて同じものを持っています。見開きのページに簡潔にまとめられた例文がおぼえやすく、この種のテキストとしては最良のひとつではなかったでしょうか。先生の御本はその後も、仏和辞典・基本単語集・文法事典と学恩をこうむりました。

 「ふうん、ぼくはね、英語とドイツ語は文法的に似てるから、だから取ったんだ」

 「うん、いいんじゃない、ゲルマン語系だからその通りだよ、おとうさんも来年いっしょに勉強しようかな、楽しいからね」

 「どうぞ」

 高彦くんは最近おぼえた大人っぽい口調で賛成してくれました。田所さんはむかし、ドイツ語の初級を学んでから、カフカの『日記』や『ミレナへの手紙』をペーパーバック版で求めて、その部分部分をたどたどしく読んでいたころを思い出しました。高彦くんは何を読むようになるのでしょうか。

 田所さんの外国語は結局どれも実用の域には達せず、みな初級のレベルを超えませんでした。こどもたちも最近はさすがにそれを見ぬいていて、

「おとうさんは、必要のないことばを勉強するのが楽しみなんだよね、人間だれでも何か楽しみがなくちゃあいけないよね」などと兄弟そろって言っています。確かにそうかもしれません。外国語学習も今ではもう追憶の一こまになりかかっているのです。

 田所さんにとっていちばんなつかしい外国語はロシア語であったかもしれません。田所さんはロシア語を、百瀬先生とクラビヨワ先生から習いました。クラビヨワ先生は今もお元気でしょうか。ほんとうに久しくお会いしていません。先生は小柄でそれでいてどうしてあんなに澄んだ大きな声が出たのでしょうか。ロシア語には明るい音と暗い音があるのです、と初めのころの授業で話してくださったことを今も忘れておりません。

 学習者が行う秋のロシア語祭で田所さんは、ロシアの詩人レルモントフの短い詩を暗誦するようにと先生が自ら詩を書きとめてくださり、それを暗い照明の教室で暗誦した日のことをはっきりとおぼえています。

 そしてこれがいちばん大事なのですが、そもそも田所さんがなぜロシア語を学ぼうとしたかといいますと、ある日大学の一授業のとき、その教室に黒板消しが無かったため、すぐ隣の教室をノックして、黒板消しを借りようと思ったときのその教室がクラビヨワ先生のロシア語の授業だったのです。先生はいつもの、学生に向って前かがみになるようにして発音なさるその仕方で、ほんとうに楽しそうに教えておられたのです。そのとき、田所さんは、ああ来年は絶対先生の授業を取ろうと思ったのでした。それがクラビヨワ先生との出会いでした。

 高彦くんは今日は天文クラブの観測があるので、ふだんより早く出ないと行けないのです。

 「たいへん、もうこんな時間、ターくん早く早く」

 妙さんがガスレンジから振り向いて高彦くんを促しました。外は良い天気で、今日もまだ残暑が厳しそうです。

33 秋の庭

 秋の庭は少しさびしくなります。バラはまだ幾度めかの花を咲かせますが、花はようやく小ぶりになってきました。注意していたにもかかわらず、うどんこ病と黒班病にやられた一部は早く葉が黄ばみ、秋の雨に落ちてしまい、幹だけがややさびしそうです。

 それでも紫式部の実が秋の雨の後に一挙に色をつけ始めました。水引草が赤い穂状の花をたくさん咲かせています。サザンカはつぼみが十分にふくらみ、間もなく白いふくよかな花を毎朝見せてくれるでしょう。シャラの木はその堅い葉をもう褐色に色づかせ、まもなく訪れる秋の強い風にまたたくまに散っていくでしょう。サルビアの白い花が伸びきった枝に最後の花を咲かせ、早朝の庭は、散った白い花で埋まります。

 ベニカナメもさすがに新芽を出すことが少なく、秋の姿へと変わってきました。キキョウが時折名残のように青紫や白い花をのぞかせますが、もう咲き始めのいきおいはありません。リンドウは根付きがむずかしく、今年もあまり元気がありません。ただ萩の花だけがいきおいよく咲き続けています。去年も咲いた山吹の夏の花ももう終わりました。季節は確実に寒さへと向っていきます。

 来年はクレマチスの花を咲かせたいと、小さな苗を秋の始めに買ってきたのですが、少しずつ伸びてきたので、絡みやすい添え木が必要になりました。菊がたくさんのつぼみをもたせて雨に耐えている姿は、こどものころに見た風景と少しも変わりません。裏庭の丸菊は名前のとおりに何もしないのにきれいな丸型に花のつぼみを集めています。安彦くんが夏休み前に学校からもらってきたそばの花が白く可憐に咲き、すぐに三角状の実をつけました。

 ウメモドキが今年は少なめに、その代わりに実は大きく赤く染まり、南天の実もまもなく色づき始めるでしょう。花の一年は人の世の一生によく似ていると思います。ただ花は他生を繰り返すのに、人は一生を生きるだけです。キリストのいわれた「野の白い花のように」は決して比喩ではなく人の世の表象でした。再生もまた花を見ていると必然と思われ、パスカルが『パンセ』の中で、二度生きることが不思議なら一度生きることも不思議だと書いていましたが、根源的には私たちの一度の生の不思議さに行きつくでしょう。

 花は人を哲学者にします。人は花に何を与えるでしょうか。

34 つぼみ

 九月も半ばを過ぎると、庭にある幾本かのサザンカのつぼみが赤く白く膨らんできます。まもなく急に訪れる寒さとともに、朝早くから清楚な花を咲かせはじめるでしょう。ホトトギスはそれより一足早く、斑入りの紫の花を今年は一杯につけています。夏のひどい暑さで葉が一時はかなり赤くなりましたが、秋の訪れとともに自らの季節を楽しんでいるかのようです。隣の市の園芸センターで買ってきた水引草が勢いよく穂状のこまかな花をやさしい赤色に染めています。妙さんが野原から種を摘んで来た水引草も別のところでややこまかい花を咲かせました。花はなぜこんなに季節をたがえず花を咲かせるのでしょうか。気温や日照の変化などの科学的説明を超えて、花は人に季節の移ろいを何よりも確かに伝えてくれます。あまり根付きがよくないらしいリンドウも青紫と白の花を今年はなんとか咲かせてくれました。紫式部が次々とその実を青紫に染めて秋の移ろいを示したかと思うと、萩の花が庭ではもうすべて散っていきます。

 それにしても、この時期に田所さんをいつも驚かせるのは、沈丁花やシャクナゲの固いつぼみがもうかなりの大きさで来年の春を準備していることです。花開くためにながい準備を続けていることに、田所さんは人の世の努力や成果の様子といつも引き比べてしまうのです。人は花に似て生まれてきました。ながい進化の過程の中で、美しい開花は長い必然の準備の果てに訪れるのでしょう。人だけが僥倖にあずかるということはないはずです。つぼみはほとんど半年の後に開くのです。それもほんとうに短い間だけ。

 花を育てる人にこれ以上のどのような倫理的教訓も必要がないと思われます。それどころか倫理も教訓も、自然が示す必然の結果の一部に過ぎないことを田所さんは感じずにはおれません。

35 フォークリフト

 田所さんは秋のある朝、新しいフォークリフトの宣伝を新聞で見ました。田所さんは倉庫ではラインで処理するのが中心で、フォークリフトを操作することはあまりありません。フォークは主に後藤さんが担当しています。ですから後藤さんの大事な仕事のひとつは、夕方フォークの仕事の済んだ後、明日の仕事のためにそのフォークのバッテリーを充電するということがあります。今倉庫で使っている機種はもうだいぶ古くなりパワーがないと後藤さんはよくこぼしていました。それで田所さんは夕方帰って時間ができると早速インターネットのホームページを開いて見ました。

 今では新聞広告のかなり多くにホームぺージの住所・URLを載せています。これらがしばしば新聞の記事よりもはるかに明瞭に、時代の先端の状況を示してくれることがあります。これはもう企業の宣伝という領域を越えて、企業と直接情報を欲する人との真剣なやり取りであると思えることがあります。なぜなら宣伝だけの一方的なページではだれも手数をかけてアクセスすることを続けないからです。情報を送る方も、読んでもらうためには真剣にならざるをえないのです。

 既存のメディアが現状にいつまでも甘えていれば、特に一方通行的な大メディアはやがて人々の関心の外に置かれていくでしょう。否、これはもう推量の域を越えて部分的には現実化しつつあると言っていいかもしれません。伝達する力を有するものが、これは大メディアも含めてですが、自らの既得の権益に安住しているならば、世界はもっと別の全く新しい伝達授受の場所を求めて移動していくことでしょう。ひとつの生産機構がほぼ三十年を一サイクルに盛衰を繰り返してきたことは、近い過去の産業構造を一望すれば、なんびとも否定できないことです。新聞や放送の大規模メディアがその後を追わないと誰が確言できるでしょうか。あまり欲しない情報を今までは代替するものがないということで仕方なく見ているということもあったかもしれません。しかしこれからは、それらは批判されるまでもなく、ただ黙ってそれらを置き去りにしていくことでしょう。

 田所さんはフォークリフトのホームページを開いて、必要な部分を適宜印刷していきました。十分ほどのうちにA4で二十ページほどの資料ができました。予想以上に細かなことまで載せています。たとえばACモーターのDCモーターに対する優位性。荷役パワーと走行パワーの選択。バッテリー精製水の補給などのメンテナンスの容易さ。ディスプレイの見やすさ。そして何よりも予約充電を含む充電機構の改良などを、カラー印刷できわめて要領よく説明してあります。今まではこうした資料は申し込んで郵送してもらうか、またはせいぜいFAXで番号を選んで送ってもらうだけでした。それを現在のインターネットでは自分の希望に応じて、より詳しくもより粗くもまったく自由に選択し、他の資料や情報と関連させながら、即時に印刷できるのです。しかもプロバイダーが市内にあれば、全世界からの情報収集が市内通話と全く同じ料金で行えるのですから、一度利用すればその便利さは圧倒的なものがあります。

 ですから田所さんは、ときどきインターネットで新聞を読みます。これらは無料のものがかなりあり、しかもそれらを最新の版で読めるのです。韓国のコリアン・ヘラルド、シンガポールのストレイト・タイムズ、アメリカ合衆国のワシントン・ポストなどは無料ですから比較的多い回数で読んでいます。ワシントン・ポストにはニューズウイークとブリタニカがリンクされていますから、それらもときどき目を通し、必要に応じてプリンターでプリントアウトします。そうすると普通の新聞と同じにゆっくりと読めますし、保存できますから。

 図書検索も楽になりました。正確な書名や双書名や出版年月などの正確な情報を、今までは日本書籍総目録を通観したり、必要に応じて図書館や出版社へ問い合わせたりしていましたが、各書店のホームページにアクセスすれば、その場で国内国外の刊行図書を絶版も含めて、一書店のホームページで三百万冊ほどの検索が出来るようになりました。しかもこうした検索手段は少なくともいくつかの書店が持っていますから、それらを累計すれば、一千万冊ほどの検索が常時可能な状態になっているわけです。巨大な図書館が机の上にコンパクトに置かれることになりました。少なくともこれで人は、中島敦の小説に出てくる老学者のように図書館の粘土板図書の下敷きになって圧死することから解放されたことは確かです。もっともボルヘスの小説「バベルの図書館」には人類が滅亡の危機に瀕しても明るく孤独に存続する図書館のことが出てきますが、それと似ているかどうかコンピュータの図書検索だけが廃墟の中で明るく青く画面を開き続けているというのも困りますが。

 いずれにしてもこれからは必要な情報が人によってより多く接続され流通し、不必要な情報、不正確な情報には、敢えて人はアクセスしないことになっていくでしょう。情報源はもはや一国内にとどまらず、全世界に広がっていますし、さらに無数にリンクすなわち関連づけられていますから、受け手を不正確な情報だけに隔離しようとしても、それはもう不可能でしょう。コンピュータと通信システムそのものを禁止しない限りは。

 その点で地雷禁止条約の成立はインターネット通信においてひとつの画期をなすものでした。大国同士による従来のジュネーブでの軍縮交渉もこれからは電子通信システムという広大な相手を全世界に持ったことになります。いわば特定の場所でいかに情報を操作しようとしても、その情報の多くは、今までの広報とはまったく異なった方法で全世界へと放出されていくでしょう。少なくともそのシステムはできあがりつつあります。力の均衡・パワーバランスといったものとは異なる方向での解決をめざして、人々は少しずつ英知を集めて進んでいくでしょう。

 一国の政府代表が会議で見せた地雷禁止への反対発言行為は、まるで一人だけで演ずる芝居のようなところがありました。自分と同歩調を取るはずの最重要同盟国までが会議最終日前夜の交渉で最終的に地雷禁止反対の表示をすでに取り下げていたことを、その国はまったく知らなかったからです。その国は自国が地雷禁止に反対する最後の一国であることを知らずに会議場に臨み、地雷継続の演説を行いました。その途上で継続を主張しているのは自国だけだということを知らされました。その動揺がどのようなものであったかは知りません。しかもその国の行動が即時にどのように世界に報道されているかということに対して、どうやらまったく気づかないかのようでした。以上のような経過がともかくひとつの国を代表する行為としてさまざまな通信方法で世界に伝達されました。今まででしたらそのような状況は、多分自国内部へは部分的にしか伝わらなかったでしょう、あるいは故意に伝えなかったでしょう。それが今はほとんどすべての情報が何らかの方法で全世界を経由して伝わっていきます。無数の人に読まれながら。世界は変わりつつあるのです。

 田所さんは今そんな感想を持っています。フォークリフトの資料プリントは、明日早速後藤さんに読んでもらおうと思っています。いつも使っている立場からどんな意見が出されるか、今からすごく楽しみです。

36 お月見

 田所さんのあたりではお月見は新暦で行います。十五夜は九月十五日、十三夜は十月十三日です。田所さんは小さいことのお月見をよくおぼえています。どこの家でも縁側に小さな台を置き、その上に一升瓶に入れたススキがすっときれいに伸びていて、開け放たれた障子の後ろにはきれいに片付けられた座敷があって、そのすみにはたいがい座布団が数枚重ねてありました。きれいに洗った野菜、特にサツマイモの赤紫色が夕闇の中でいつもあざやかでした。今はもう縁側もカヤ葺き屋根も、田所さんの町から消えつつあります。農家の広い庭先にさまざまな農機具が置いてあったり、夕刻に農具の手入れをしている風景も少なくなりました。特に鎌の類は危ないので一日が終わって刃先をきれいにしたあと、縄で刃先をぐるぐると上手に巻いていきます。田所さんはこどものときそれを見ているのが楽しくて、農家の庭先にいたことをなつかしく思い出します。

 最近ではお月見のススキが少なくなりました。中学校の帰りに学校の裏手の山に入ってススキを採って帰ったことなど今では夢のようです。そのススキ採りもどこまで真剣に採ったか今ではもうはっきりとはおぼえていませんが、その代わりに山栗をポケット一杯に採って、友達といっしょに生栗を食べながら帰ってきたことだけはよくおぼえています。

 今年の九月十五日はたまたま妙さんといっしょに隣の市の園芸センターに行っていました。ちょうどそこにお月見用のススキが出ていて、ああ今日は十五夜なのだと気づいたのでした。田所さんのところでもアパートの窓際にススキの穂を飾って、お月見をしたことが何回かありました。それがいつの間にかしなくなってしまったのは、二人の兄弟がそれなりに大きくなってしまったからでしょうか。あるいは仕事や子育てに追われて、忘れてしまったのでしょうか。それをまた復活させたいような気になりました。きっと庭の草木たちが思い出させてくれたのかもしれません。しかし園芸センターに行った日は、ほかにいくつか用事があって、なにかあわただしく、結局ススキを買わないで帰りました。その日は夜にあいにくと雨になってしまいましたが、これからはきっとまたなつかしいお月見が帰ってきそうな気がするのでした。

 秋になると家に前の向こうの畑を耕す山野のおじいちゃんのヤツガシラの畑がみごとに大きくなってくるのですが、ある日たまたまおじいちゃんがそこで農作業の準備をしていて、田所さんが挨拶しますと、ヤツガシラが大きくなって小さいのが日陰になってよく育たないので、少し抜いて全体に日当たりをよくしているのだとおっしゃいます。

「まだ少し小さいがあとで置いておくから」と山野さんが言ってくださいました。

 いつもそのことばに甘えて、とれたての作物を田所さんはいただいています。大正元年生まれの山野のおじいちゃんは、もう八十を超えていますが、いつも元気で夏もほとんど朝から農作業に励んでいます。こんなふうに生きたいと、田所さんはそれが自分にはとうていできないことと知りながら、いつも願っているのです。

 夕方作業を終えると、まもなくヤツガシラをきれいに洗って持ってきてくださいました。

「まだちょっと早いけどね」と言ってビニール袋を手渡してくれました。

中を見るとみごとなイモが出来ています。

「十三夜にあげたいですね」

田所さんはふとそう思って言いました。

「ああ、十三夜は今月だな」

山野のおじいちゃんはそう言ってにっこり笑いました。

37 写真

 十月十日、体育の日、快晴、今日は町の運動会が行われ、田所さんのところでも弟の安彦くんが、地域の小学六年生による応援団の一員として、一日中大きな声をあげて声援しました。安彦くんが太鼓をたたきながら、声をかけます。「1拍子用―意!」。ドン,ドン,ドン。「2拍子用―意!」。ドンドン,ドンドン。「3拍子用―意」。ドンドンドン、ドンドンドン。という具合です。夕方には声がかれて、「おかあさん、のどあめない?」と聞いてきました。

 妙さんも地域のマイクロバスで応援団のこどもたちと一緒に,朝早くから行ってしまいましたので、田所さんは兄の高彦君と一緒に朝食をとり,簡単に片付けをしてから,運動会を見に行きました。数年前に兄の高彦君も応援団で声を張り上げました。今度は弟の番です。ときの流れはほんとうに速いものです。今年の応援がどんなふうか楽しみです。なにしろ地区の会館で何日かかけて、夜練習をしたのです。おそろいの服を着て、男の子は長いはちまきをし、女の子はきれいなボンボンというのでしょうか、丸いひらひらとしたものを手に持って踊るのです。きっとかわいいでしょう。練習の話はよく聞いていましたが見るのは当日が初めてです。

 会場は町の丘の上の運動場です。車を下の方の駐車場に止めて、丘を上っていきます。交通整理の方々が旗を振って誘導したり、もうかなりにぎやかです。途中で田所さんの地域の駐在所の大場さんがいました。「今年も走ったんですか」と伺うと,今年は走りませんでした、とのこと。大柄の大場さんは体に似合わずと言っては失礼ですが,走るのが速いのです。それで仕事が当日大変忙しいのですが、地域代表として走ることもあるのです。

 丘の上のからはにぎやかな音楽が流れてきます。場所はすぐにわかって,知っている方にあいさつし、椅子に座るとちょうど女の子たちが応援を始めるところでした。

 ラジカセから流れる地域だけの音楽に合わせて、元気よく楽しそうに踊り始めました。さすがによう練習しただけあって、ひいきめにではなく、ほかの地域の応援より断然際立っています。田所さんは今日はカメラを持ってくるのを忘れてしまいました。車の途中で思い出したのですが、戻るのも少し億劫でしたので,そのまま来てしまいました。応援を見るとすぐに、ああこれは写真に撮ってあげなくては、と思いました。妙さんが手を上げて,こっちに座ったらとうながしていますが、田所さんはそのまますぐ家にもどって,カメラを持ってこようと思いましたので、ここでいいよ、と手で座っている椅子を指差しました。

 車で戻って、会場に戻ると,今度は男の子・女の子総出で応援をしています。プログラムの隙間を縫って前に出ては,田所さんはこどもたちの楽しそうな応援風景をカメラに収めました。ファインダーをのぞきながら、このカメラでたくさん写真を撮っていたころのことをふと思い出していました。それは田所さんが聴講生として,大学で歴史を中心に学んでいたころ、ときどき奈良と京都に出かけていたのです。

 田所さんは特に冬の奈良が好きでした。田所さんがよく泊まった所は、宿代が安かったのですが、夕食がなかったので外から帰ると少し休んだ後、外へ食事に出かけるのでした。「わらびもちー」と独特の口調で売って歩くわらびもち屋さんの声を遠くに聞きながら,田所さんはその日一日の自分なりの勉強の成果を振り返りながら、思いはいつか自らの生き方へと移っていくのでした。東京の西郊とはいえ、それなりにあわただしい日常をしばらく離れて奈良という千年の単位の懸隔の中に身を置くと、忘却の淵に沈んだような思いがふと浮かび上がってくるのでした。室生寺の急な階段を上り、仏像に相対しているとき、きっと多くの人が思うように、田所さんも、これらの仏像の存在の長さに比べて自らの生のつかの間の理知がいったいどこに位置づけられるのか、茫漠とした思いになるのでした。それでも田所さんが歴史についての勉強を続けてこられたのは、田所さんに歴史を教えてくださった山野先生のおかげでした。たぶん誰でもが持つ人生の途上での深淵に似た懐疑に対して、先生はそうした懐疑を認めながらしかもゆっくり歩む方途をいつにまにか指し示してくださっていました。二月の底冷えのする奈良の古びた喫茶店で、先生はその店をずっと以前から訪れていたことを話しながら、それ以上特に学問の話をするわけでもなく、一日の疲れに熱いコーヒーをすするのでした。

 田所さんは奈良を訪れるとき、ほとんど必ずカメラを持っていきました。ニコンのF3、レンズはニッコールの50mmでF1.2、今はもうカタログにもないようですが、非常に明るいレンズなのでいつもフラッシュなしで写していました。先生と醍醐寺を訪れたとき、その受付で先生が私のほうには背を向けて、かかりの人に訪問を告げていたとき、田所さんは裸電球の明かりの中にたたずむ先生の姿をカメラに収めました。その構図をもう二十年近くも経ったというのにはっきりと覚えているのです。それは田所さんが写したものの中の心にしみる数少ない写真の一枚になっています。

 写真は寡黙でありながら人にときに全的な記憶を呼び覚まさせます。その奈良の時代から幾ばくかの年月を経て、田所さんは妙さんの写真を撮り、二人のこどもの写真を撮るようになりました。兄の高彦くんは高校に進み、弟の安彦くんも今年はもう小学校の最終学年になりました。こうして町の運動会での安彦くんの応援風景をファインダーの中に見つめていると、一人の生涯は、千年の仏像はおろか一台のカメラにももしかしたら比肩しないのではないかと、それは決して落胆でもなんでもなく、素朴に思えてくるのでした。

38 声門閉鎖

 妙さんの韓国語の勉強は発音のところで、まず途惑ってしまいました。韓国語の子音には、平音と激音と濃音の三種類があって、平音は普通に発音し、激音はその名のとおり息を強くしながら激しく発音すればだいたい似た発音となるのですが、濃音のところで困惑してしまったようです。田所さんも妙さんの車に時々乗ることがありますから、エンジンを掛けると同時に韓国語の発音テープが流れてくるのにはちょっと驚きました。妙さんもなかなか頑張っているのです。

 発音テープは韓国の方が発音と説明の両方を行っていて、全体的に非常によく出来ているものでした。ただ進行が少し早いですから、初心者の人は付いていくのがかなりたいへんだろうなと推測できます。妙さんは土曜日の夜、夕食の準備をしながらこんなふうに話しかけたのです。

「おとうさん、あの濃音ていうのは、どう発音するの。説明だと、激音のように激しく息を出すつもりでその息を止めて発音するんです、というの。だって息を止めたらほんとうに苦しくなっちゃうわ」

 田所さんはそれを聞いていて、妙さんの話し方が真剣で、その「正しい」説明に困惑している状況がよくわかり、申し訳ないのですがおかしくなってしまいました。

「それはね、妙さん、その説明はそれでいいんだけど、それをそのまま実行しようとすると、確かに苦しくなっちゃうよね」

「息を止めて発音してください、っていうのがいちばんわからないわ」

 田所さんもむかし、中国語の発音を初めて学んだとき、いくつかのテキストには有気音の説明のところにきまってロウソクや紙切れを手に持っている図が描かれていて、有気音はそのロウソクや紙切れが息で震えるように発音してくださいとなっているのでした。それは確かにそういうふうにも説明できるのですが、説明の仕方としてはどことなくぎこちなかったことをおぼえています。さすがに最近のテキストではそういう図はあまり見かけなくなりましたが、今度は韓国語の学習者が濃音の説明で困惑しているのかもしれません。

 中国語の無気音・有気音と韓国語の平音・激音はきれいに対応します。しかし韓国語の激音の説明にあまりロウソクや紙切れの図が登場しなかったのはどうしてでしょうか。発音練習にも、伝統やお国柄があるのかもしれません。

 さて韓国語の濃音ですが、田所さんもむかし朝鮮語・韓国語を学んだとき、濃音の発音には苦労した記憶があります。田所さんは元来外国語の発音にあまり苦労しないほうでしたから、濃音もいつのまにか、それなりに発音して今に至っているわけですが、濃音の説明を普通のことばで説明することがかなりむずかしいために、妙さんのような初心者が困惑することになるのでした。

「妙さんね、それは音声学の基礎がほんの少しでもあればいいんだけれど、音声学がいまのところ一般的な常識になっていないから、ああいう説明の仕方しかできないんだよ」

 田所さんは韓国語のために一生懸命弁明しています。ここで妙さんにギブアップされてしまうと、将来の韓国行きが遠のいてしまいます。

「息を止めるというのは、音声学で言うと声門閉鎖っていう現象なんだよ。現象なんて言うと変だけど、要するにのどの息の仕方なの。のどの奥に声帯っていう声を出す帯があるのは知っているでしょ。耳鼻科の先生のところに行くと今はのどの奥を見る機械があって、テレビみたいにのどの奥がちゃんと映って、プリントアウトもできるんだよ。その画面を見ていると声帯の動きがよくわかるんだ。」

「声帯は声を出すとよく動いて息を出しながら同時に声も作っていくんだけど、その声帯をぴったりと閉ざして、息も声もまったく出さないようにすることができるんだ。声帯があるあたりを声門ていうんだけど、その声門を声帯がぴったりと閉ざしている状態が声門閉鎖って言うわけ。ぼくらはいつもなにげなく発音しているのに、じゃあ声門閉鎖を行ないなさいなんて言われると途惑っちゃうんだな。」

「口をちょっと開けてのどの奥を緊張させて息を止めている状態、それが声門閉鎖。それで韓国語の濃音ていうのは、その声門閉鎖をきちんと行なってから発音することなの。だけど声門閉鎖ということばが一般的でないから、<激しく発音しようとする息を止めて、それから一気に発音する>とか説明するようになっちゃうんだね。だから学術用語っていうのはほんとうに大事だと思う。少なくともこれだけ外国語の勉強が盛んになっているんだから、基礎的な音声学の知識は必須の条件だと思うよ。でもたぶん、高校までのレベルで音声学はまったく出てこないんじゃないかな」

「声門閉鎖なんて知らなかったわ」

「そうだろうね、大学の第二外国語などでも果して説明しているかどうか。とにかく現象としては簡単なんだよ。たとえば、よくある例だと、あの食べる薄荷、あのハッカというとき、一端のどがつまるでしょ、あれが濃音。だから日本語でも普通に発音されているんだよ、ほかにもたとえば<まったく>とか<けっして>とかいくらでもあるよ。ただね、少し正確に言うと、意識するか無意識であるかを別にすれば、発音現象としては、日本語も韓国語もだいたい同じことが起こるんだけど、拍数が違うの。日本語はハッカと言うと<ハ><ッ><カ>で三拍だけど、韓国語では<ハ><ッカ>で二拍になるわけ、これは少し脱線だけどね」

「でもあの発音の説明だと困っちゃうわ」

「確かにそうだね、だからやっぱりわかりやすい学術用語が必要だね」

 田所さんは妙さんに話しかけながら、中等教育が行き渡ったとされる中での、意外な欠落がきっとこうしていくつかあるだろうと感じました。医学にしろ、経済にしろ、日々の生活の中で大切な知識を、詰め込み勉強でないかたちで理解し蓄積していくことはこれからもっともっと多くなっていくでしょうから、それにはなんらかの新しいプログラムが必要なときに来ているのかもしれません。料理のためにイタリア語が、舞踊のためにインドネシア語が、北極圏のためにイヌイット語がごく自然に必要とされる時代がもう来ているのですから。

 田所さんは二人の兄弟のために、むかし買った地球儀をときどきぐるりと回します。沖縄の下にすぐ台湾があり、その南にフィリピン,さらに南にインドネシア、そのすぐ右下にオーストラリアと続きます。それがひとつの海でつながっているのです。

「今度いっしょに発音の勉強をしようよ、ぼくも復習したいから」

「日曜日の午後にね、でもまたつぶれちゃうかもしれないわ」

 日曜の午後は庭に出たりしてだいたいのんびりしてしまうのです。でも人生は長いのですから。

39 十月の花

 十月の庭は、冬の訪れる前に最後のはなやぎを見せます。居間のガラス戸の前のテーブルのアメリカン・ブルーは夏の終わりから咲き続け、色をうすくしながらも一日おきにまだ花をかなりつけています。雨戸の前の台には六月からの青いサフィニアがもう枝を伸ばしきった状態で花をつけていますし、その隣のベゴニアはまだ新しいつぼみを次々に膨らませています。

 六畳の和室の前のサザン・クロスはさすがに花を終えましたが、その隣のパイナップルセージが十月に入って赤い穂状の花をようやくつけてくれました。丈はもう一メートル近いでしょう。隅にあるミニバラはまだ間隔をおいて花をつけてくれます。

 入口の縁に植えたトランペットが白い花をこれはもうしばらく咲かせるでしょう。いくつものつぼみを持っていますから。その横の淡いピンクのミニバラもその色をほとんど白くしながらもまた咲き始めました。ヤブランの穂状の花はようやく終わりましたが、赤いベゴニアがその下から咲き、千両の実も少し赤くなってきました。菊の花が今年もたくさんつぼみを着けましたから、もう少しで咲き始めるでしょう。

 和室の前のミニバラが咲き、水引草が穂を一杯に赤く色づかせ、二本のウメモドキには去年ほどではありませんが、その代わり大きめの実を赤くしています。その下のホトトギスは野生の強さでしょうか、紫のまだらの花をシャラの木の下で大きく広げて咲いています。そこにも千両がもうほとんど真っ赤に色づいています。シャラの木に夏から絡んでいる紫のツタカズラが毎朝数輪ずつ花をつけてくれます。寄せ植えの鉢に植えたアメリカン・ブルーがここでも一輪二輪と咲いています。

 玄関の前には夏からずっとバジルの花が咲き続け、今も少しも衰えません。ローズマリーはようやくその可憐な花を終えましたが、ハイビスカスがまだ深紅の花を数日ごとに一輪ずつ咲いていますし、デージの黄色の花ももうしばらくは咲き続けるでしょう。幾個所かに植えてある萩の花はしばらく前に終わり、その葉をすでに色づかせ始めました。

 そしてなんと言っても六本ほどあるサザンカがここで一斉に咲き始めました。特にいちばん背の高い白の八重咲きが今年はその花を一層大きくして咲き始めています。サザンカは秋から冬のこの小さな庭の花の中心になっていきます。

 塀の外の道に面したところは金網に這わせたまだつるバラの新雪がときどき一輪ずつ咲き、黄色いかおりの高い中輪のばらは寒さに強く冬の初めまで大きく咲いています。

 東側の鍋島さんとの境にはやはり白いサザンカが二本、もうしばらくすると咲き出すでしょう。今年できたその実を先日ご主人にあげました。もしかしたら鍋島さんのお宅にもいつか田所さんと同じサザンカが咲くようになるかもしれません。鍋島さんの側の境の菊の花が今年もつぼみを無数に着けていますから、見事に開くのを今から楽しみにしています。

 先日、最近の二人のほとんど唯一の楽しみの園芸専門店・ファンタジアに行って白いスミレと青いスミレを幾株かずつ買ってきました。白は南の道の塀の下に、青は玄関脇の中庭に植えました。これはもう来年の春まで咲き続けますから、花々は新しい年を先取りしているというわけです。

 入口のところに秋の始めに植えたクレマチスが、順調にその枝を伸ばしていますから、来年は旅人の目を楽しませる「トラベラーズジョイ」となることを祈っています。その入口の反対側にバラのアーチがあるのですが、その下のところにやはりファンタジアで買ってきた淡紅色のシャクナゲの15センチほどの苗木を最近植えました。妙さんの希望ですが、この木が大きくなるのは果していつごろでしょうか。こどもたちはもう巣立ちをしていたとしても、私たち二人は元気でいたいと田所さんも妙さんも心から思うのです。

40 研究会

 田所さんは数人の仲間と研究会を開いています。中国の宋の時代の文集『太平広記』という本をみんなで読むのが目的です。『太平広記』は全部で五百巻、目録が十巻、田所さんの持っている活字本でも全部で十冊、4100ページの大著です。

 どうしてこんな本を読むようになったかといいますと、はなしは十年ほど前にさかのぼります。小さなことで隣の市の図書館にレファレンスをお願いしたら、それなら郷土資料室に取り次ぎましょうということになり、そこで資料室の寺山さんと知り合いになり、その縁でさらに古文書読みの名人中崎さんにわからない地域の歴史のことを教えてもらうようになりました。さらにもう一人の古文書読みの達人でいらっしゃる藤木さんにもいろいろと教えてもらえるようになりました。このメンバーに田所さんの町の若い友人の村川さんが加わっていつのまにか研究会の前身のようなものが発足していたのです。郷土や近隣の市町村の歴史を学ぼうとするとどうしても近世の資料を読まねばならず、田所さんは古文書がよく読めませんので、中崎さんや藤木さんにお聞きする。またお二人は漢文が少し読める田所さんに漢文の読み方をたずねる、というふうにおたがいに助け合っているうちに、それでは少しまとまった本を読みましょうということで現在の研究会が始まったのです。

 『太平広記』は現在「巻第二百七十六夢一」というところを読んでいます。中国のさまざまな夢にまつわる事件を扱っています。ところどころに文字のパズルのようなことが出てきてその一種の謎解きにみんなで知恵を集めるようになったのは、当初おもいもよらなかった副産物でした。たとえばこんなはなしがあります。ある男の夢に一人の捕虜が出てきます。捕虜は上着をとって上半身裸になります。この夢解きはこうなります。「虜が上着をとった、だから虜の字から上半分をとると、残りは男という字になる。すなわちあなたの妻は男の子を産むでしょう」というような謎解きなのです。

 その次のはなしはこんなものでした。ある人が南の地域を征服しようとしていた。その人は町中に野菜が出回り、また土地が傾くという夢を見ました。夢占いはこうなります。「野菜が多いと醤すなわち調味料が足りなくなる、すなわちあなたは将になれない。土地が傾けば平らでいられない、すなわちあなたはその土地を平定できない」というような具合です。

 占いのはなしですから易のことも出てきます。田所さんは大学の聴講生のとき、哲学の南先生から、易経のはなしを半年間聞きました。これはたいへん楽しいはなしでした。いつまで続くのかなと思っていましたら、十月ごろ南先生はこういって易経のはなしをおしまいにしました。「易者になるんじゃないからもうやめましょうか」田所さんは少しがっかりしました。そのくらい楽しかったのです。

 そんなわけで、田所さんは多少易のはなしができます。みんな南先生の受け売りです。でも研究会のメンバーはときどき興味を示してくれますので、いつか易について話さなければと思っています。

41 市民講座

 ある日、田所さんは、同じ町の研究会の友人村川さんから電話を受けました。

「こんばんは、田所さん、今日は少しお願いがあるのですが」

村川さんは、年下ですので少し丁寧なことばを使います。

「何ですか、そんな改まって」

田所さんも少し緊張します。

「実はね、田所さん、町に市民講座があるのをご存知ですか」

「ええ、知っています、でもなまけものでまだ参加したことがないんですが」

「それはいいんですが、その講座の講師をね、田所さん今度一度やっていただけますか」

 村川さんは町役場に勤めています。町の市民講座の講師に今度一般の市民から講師を招いて、新しい形の講座を開きたいということでした。

「はなしはよくわかりました、すばらしい企画だと思いますけど、私というのはちょっと」

「それがね、具体化しようとすると、意外にむずかしいんですよ」

「そうですかねえ、いろんな方がいらっしゃるでしょうから、おもしろそうなのにね、できたら町の人がいいんですか」

「できましたらね」

「もし私だとしたら、どういうことをすればいいんでしょうか」

「それはいろいろ御相談して、ということにしますが」

「それで私ですか」

「研究会の延長のようでいいと思うんですが、できましたら」

 そんなことで結局、田所さんは三回の市民講座の講師をすることになりました。一週間に一度、時間は夜の七時から九時まで、市民の方が参加しやすい時間に行なうことになりました。問題は内容です。まだしばらく時間があるのでゆっくりお考えいただければと言って、村川さんは電話を終わりました。

 電話のあと、家族に話しますとみんなおもしろいといってくれます。田所さんも確かにおもしろいとはおもいますが、やはり責任は重大です。

 みんなの意見を聞いてみました。

「わかりやすく話すことね」と妙さんがいいます。

「でもおとうさん何をはなすの」

妙さんは内容がないことをどうも心配しているようです。

「それはいろいろあるよ、勉強したからね」

「おとうさんのはでも雑学でしょ」

なかなか痛いところを突いてきます。

そこに高彦くんが加わります。

「ひとりよがりがいちばんいけないんじゃない、そういうのってよくあるから、先生で」

これもなかなか鋭い意見です。安彦くんも加わります。

「おとうさん、楽しいのがいいよ」

それがきっと正解でしょう。田所さんは楽しい講座にしたいと思いました。でもそれがもしかしたらもっとも難しい課題であるのかもしれません。なぜならおおぜいの人を前にしてとても余裕を持って話すことなどできそうもないからです。

 こうして田所さんの自由な時間は、学生時代の試験前のような感じになりました。 

42  譚嗣同
 
 今度新しく設けられましたこの市民講座は、お聞きになるのは市民の方々でいらっしゃいますが、講師もできるだけ市民の方にお願いするというもので、その最初を私が行うことになりましたのは、力が足りないことはもう明白ですが、その方向には深く賛同いたしましたのでそのままお引き受けすることとなりました。学業を専門といたしません私にお話しできますことは、たいへん限られたものでしかありませんが、もしそこにみなさんの御参考になるものがあるとすれば、それは三十代に仕事をしながら、大学に聴講に出かけ、それをなんとかこなし、しかも楽しく数年間続けることができたことではないかと思っております。

 どうしてそういう生活を選んだかということですが、私はそのとき初めてはっきりとした意志を持って自分から勉強をしたいと思ったからです。それ以前にもたしかに少しは勉強しました。しかし本当に自分が何を勉強したいのかがわかるようになりましたのは、実際に社会の中に出て、その中で、現在自分が持っているものがどのようなものであり、自分に欠けているものがどのようなものであるのかを、はっきりと認識できたときでした。私の場合、歴史というものが前からたいへん気になっていましたが、しかしそれをどのように学んでいけばよいのか、はっきりいってその方法がよくわからなかったのです。

 歴史は普通過去のものと考えられています。存在した事実の集積と考えられています。時間の経過とともに次第に集積したものと考えられています。ただ私がそこで気になったことは、その集積がたとえば食卓に重ねられたホットケーキのように、実際に積み重なっているわけではないことです。何年のあとに何が起こったと記録されますが、それは頭の中でそう重なっていると考えるだけで、実際にそのように見えるわけではありません。積み重なっている地層のようなものは、普通にはなかなか見ることはできないと思います。

 歴史年表というものがありますが、そのように順番をなして、事実が並んでいるのを実際に見ることはできないのです。過去は過去という一様なぼーっとしたものの中に、混ぜこぜになっているわけです。それでは困るから時間の順序に配列し、並べることをする。バラの花が咲いたあとに朝顔が咲き出したことを、頭の中で思い返すのです。あるいはメモしておいたノートによって確認するわけです。つまり歴史とは、時間という棚に事実という品物が順序よくきれいに配置されていると頭の中で空想している状態なのです。もし棚が壊れれば、品物は下に落ちて、みんなごちゃ混ぜになってしまいます。

 私が気になったのは、この時間という棚のことでした。この棚とはいったい何なのかというのが、私の問いだったのです。

 古い日記を見ます。そうすると何年何月何日に、何があった、その次の日には何があったと、書かれています。その順序が年表になります。しかしよく考えて見ると、年表は時間に基づいた事実の配列です。事実の配列は果して歴史でしょうか。

 少し具体化しましょう。私たちは誰も大切な思い出を持っています。大人ならば、こどものときの思い出、学生時代の思い出、初めて恋をしたときの思い出。それらはふつう追憶というかたちで、自由自在に時間を前後して思い浮かばせることができます。決して年表順に思い浮かべるものではありません。でもそれが自然なかたちの個人の歴史だとは思いませんか。それらは一見ごちゃ混ぜになっています。でも全くめちゃめちゃでもありません。話そうと思えば順番に話せます。逆に時間をさかのぼることもできます。楽しかったことだけを拾い出すこともできます。それが個人の歴史だと思うのです。しかもその歴史は絶対に戻ることができません。タイムマシンは存在しないのです。あのときこうすればよかったとは思います。でもそこにふたたび立ち戻ることはできません。歴史は立ち戻ることができないのです。当然とお思いでしょうか。

 中国の近代に譚嗣同という人がいました。政治運動をしてつかまり、結局死刑になりました。そういう人です。この人は「仁学」という本を書きました。その本を現代の私が読みます。そして考えるのです。この人はもしかしたら死刑にならずにすんだのではないかと。しかし事実の集積はその方向へは進まず、彼は死刑になります。逃げられる可能性があったとされる。しかし当然のことですが、そこに立ち戻ることはできません。歴史は立ち戻ることができないのです。そうであるならば、歴史的に検討するということはどういうことになるのでしょうか。

 譚嗣同は歴史を生きました。それはだれも認めるでしょう。しかし譚嗣同の生をあとの時代から考えるとはどういうことでしょうか。譚嗣同が経験しない後の時代から譚嗣同そのものを考えることは、もしかしたらどこかに根本的な矛盾を含んでいないでしょうか。それが私の疑問だったのです。いいかえるならば、立ち戻ることのできない歴史を立ち戻って考えることとは何かというのが、私の問いだったのです。これは私にとって一つの大きな難問でした。

43 歴史における自由の観念について

 歴史を立ち戻って考えることから生ずる難問を解決する方法はないのでしょうか。

 確認するならば,歴史は確かに存在します。譚嗣同は生き、そして亡くなりました。私が問題にするのはその歴史について考えることなのです。簡単に言うならば、ある一つの歴史にその後の歴史を付加して考えることなのです。不正確かもしれませんが、こんなふうにもたとえられます。ひとつの生を生きた人がいます。その人に生涯付き添ってその死を見届けた人がいます。この二人は同一の人でしょうか。普通ならば当然違うと答えるでしょう。単純化すればこの二人の関係に近いことなのです。

 歴史を生きて死んでいった譚嗣同について、その死後から考えることとはいったいどういう行為なのでしょうか。過ぎ去った歴史を可能な限り再現しようとすることでしょうか。それならば再現するという行為は本質的にどのようなものなのでしょうか。

 歴史は一方向に流れます。しかし再現するという行為は、その時間の流れを一度は逆行させる行為を含みます。生者はいまだ死という収束点を持ちませんが、死という収束点は、その前のすべての生をみずから逆行して確定させています。

 順行する歴史そのものに矛盾はありません。しかし歴史を考えることは、根本的に矛盾を含みます。なぜならそこにはどうしても時間の逆行が前提されてしまうからです。時間の順行と逆行との、この厳然として存在する根源的な対立を救済する方法はないでしょうか。

 私はここで、「歴史における自由」という概念を導入します。歴史には、一方向の歴史すなわち「生きる歴史」と、二方向の歴史すなわち「考える歴史」が存在するのです。二方向の歴史「考える歴史」とは、一方向の歴史「生きる歴史」に、時間を自由に行き来する想像上の方向を加えることです。これが「歴史における自由」という概念なのです。すなわちこの自由とは、自然的な現象ではありません。時間を自由に行き来するのですから、超自然的なものです。この超自然的な時間を導入することなく、歴史を考えることはたぶん不可能でしょう。歴史を考えることは決して自然的な行為ではないのです。歴史を考えるとき、人は超自然的な状態を内に含まざるを得ず、従って理性を超えるものと直面せざるを得ないのです。人があたかも自らの思い出を追想するように。小林秀雄さんがかつて歴史は思い出すことだと述べました。それが私のうちにある歴史に対するつたない思いと似たものであるのかどうか、今はつまびらかにできませんが、私のここでの論の中心は、あくまでも「自由に行き来する」という概念にあるのです。

 簡単に言うならば、ここで言う「自由」とは過去と現在とを自由に行き来する人間の思惟上の行為のことです。この自由の延長は必然的に未来へと向うはずです。すなわち未来の歴史が、歴史を考えることの必然的な結果として出来するのです。今何が生起しているか。現在は存在しない何かが、未来にはどのように顕現するのか。たとえていうならば、競馬の勝ち馬を予想する中に、歴史の本質が存在するのです。生きて楽しむために、生のつかの間の輝きを味わうために、人は競馬という未来の歴史に臨むのです。譚嗣同が理不尽に生きたように。

 歴史とは、見えない未来に向って、ときには理不尽に、ときには超自然的に生きることともつながっています。その中心に自由が存在するのです。

44 世界表現

 私のつたない講座を聞いてくださりほんとうにありがとうございます。私としてはできる限りのことをしたと思っておりますが、仕事の合間をぬって、今まで考えてきましたことをその時々に整理したものですから、あとから考えればきっといろいろな不備や矛盾があったことと思います。

 哲学と歴史に関心がおありとのこと、すばらしいことと思います。すでにかわいいお孫さんがいらっしゃるとのこと、お喜び申し上げます。私自身はまだ子育てに追われて、日々をあわただしく過ごしておりますので、ご質問に果して充分答えられるか、全く自信がありませんが、少しでも参考になることがあればと、ご返事を申し上げます。

 個人と世界との関係が、ご質問の中心と思いました。「日常の生活のレベルではなく、自分のこれまでの生涯の結果としての現在において、自分が今何をすべきかわからない」と書いておられました。それに対して充分に答えられる力は現在の私には到底ありません。ただ幾ばくかの経験と幾ばくかの読書の限られた範囲で私が現在考えていることをお伝えすることは、それがどんなに小さなことであっても意味のあることと思っています。私は基本的に楽観主義なのです。より良い方向に発展するどんなに小さな可能性でも、とりあえず試みてみるというのが私の方法です。

 私の結論を簡潔に申し上げれば、「自分が今何をすべきかわからない」原因は大きく言って、二つあると思います。一つは、自分に表現する方法がないこと。もう一つは、自分が表現する世界を持っていないこと。この二つに要約できます。

 ネガティヴでなく、ポジティヴに申し上げるならば、より簡潔になるかも知れません。「人は表現を持たねばならない」しかも「その表現は、世界を蓋う表現でなければならない」。この二つに尽きると思います。

 人は自ら表現することによって、行動を開始することができます。すなわち「今何をすべきかわからない」状態から脱することができるのです。しかしその表現が、自分が考える世界の一部をしか蓋うことができないとすると、すぐに不満が生じてきます。私はもっと別の表現をしたいと。ですから表現は、その人が持っている全世界を表現できなくてはならないのです。表現はその人の世界を表現するものでなければならないのです。そこでなされた表現がどんなに小さなものであっても、それが世界を蓋っていると思えるならば、その人に不満は生じないのです。後はその世界表現をより完全な方向へ持っていくように努力するだけなのです。

 それでは表現とは、いったい何でしょうか。自分の一部を世界に向って投げ出すこと。こうすることによって、自分と世界とはいやおうもなくつながるのです。表現とは自分が世界に向って投げ渡した橋なのです。それによってその人は混沌というくらい谷間の上を安全に渡ることができるのです。投げ渡された橋は強くなくてはなりません。切れれば谷底に落ちてしまうからです。そうなれば死なないまでも、傷つかずにはおれないでしょう。

 橋を渡った向こう岸が世界です。世界は常に見晴らしがよくなくてはなりません。自分が望む全世界が見えねばなりません。橋はどんなに細くとも全世界に通じていなければなりません。客観的に全世界である必要はありません。自分が見ている風景をその人が全世界と思えるかどうかなのです。

 ある人は歌曲を作るのが好きです。どれも短いもので、一分ほどで歌い終わります。しかし彼はそのときその歌の中に自らの全世界を表現しました。喜びも悲しさも論理も社会批判も、すべてその中に入っています。他の人はその歌曲をつまらないというかもしれません。でもそれにどのような意味があるでしょうか。他の人がつまらないと判断することは、橋が対岸に向って投げられた事実と直接の関係はありません。橋がそこにできたことは事実なのです。歴史はそこに生まれました。たとえつまらなくてもいいのです。歴史は生きることですから。

 しかし「書かれる歴史」とは別のものです。だれかが、つまらない歌だと書くでしょう。そう書かれたことはしかし、一方向に進行していく生きる歴史とほとんど何一つかかわらないです。

 ガモフという人が思い描いた、「虫食いりんご」というのをご存知ですか。一つのりんごを二匹の虫がかじり始めるのです。二匹の虫は先天的にもう一匹の虫を避けて進みます。どこまでも進むのです。どうなるでしょうか。一つのりんごという空間がみごとに二つに分かれるのです。錯綜しながらも絶対に交わらない二つの空間ができあがります。

 生きる歴史と書かれる歴史は錯綜しながらも、全く別のものなのです。私たちは生きる歴史の中にいます。誰かの作った歌曲は、シューベルトの「妹の挨拶」のように完璧な美しさを保持していなくてもよいのです。

 それでは世界表現というときの世界とはいったい何でしょうか。シューベルトの歌曲を思い出してください。「糸を紡ぐグレートヒェン」が歌われています。聞いている私たちの前にグレートヒェンの風景が出現します。世界とは出現であり、顕現です。出現しないものは世界ではありません。まだ暗い谷間なのです。世界とはですから、必然的に一つの新しい出会いをもたらします。人は世界において新しく出会うのです。グレートヒェンを見、妹の挨拶に接するのです。

 人が世界表現を持つということとは、だいたい以上のようなことです。ご参考になったかどうかわかりませんが、どうか自分が何をすべきかわからないと、おっしゃらないでください。

 橋をかけることは、足元にある一本の縄から始められます。きっと一本の縄があるはずです。どうかそれを見つけ、そうしてそれを丈夫によってください。切れないように。見かけなどどうでもかまいません。それによって歴史という困難と祝福とを生きるのです。未来に向って。

45 一回性と自由性

 お手紙をいただきありがとうございました。私が講座でお話しした生きる歴史と書かれた歴史について、もう少し詳しい説明が欲しいとのこと、私自身十分に説明できていないことを感じております。ただ私が申し上げていますことは,決して特殊なことではなく、ごく普通のことを再確認している面が強いと思います。ただそれがまだ十分に私の中でことばとしてよく熟していないのだと思います。

 私が講座で申し上げたことは、今までの一般的な歴史の見方に特別な異議申立てをしているのではなく、歴史を自分の生き方に即して考えてみたかっただけなのです。ですから生きる歴史については歴史ということばを使わずに、日々の生活というような簡単なことばの方がよかったかもしれません。しかし私があえて生きる歴史ということばを使ったのは,そうした日々の生活も一瞬後に歴史の中に組み入れられ、書かれる歴史として人の認識の対象になるからです。

 簡明に分類するならば、生きる歴史は生活であり、書かれる歴史は認識である、とすることもできるでしょう。生活は一回的であり、認識は反復的です。生活は未知に向って進むのであり、認識は既知のことを中心に振り返りながら考えるのです。やや不正確かもしれませんが、生きる歴史すなわち生活は微分的であり、書かれる歴史すなわち認識は積分的であると言えるかもしれません。似てはいても、二つはやはりどこかで峻別しなければならないと思います。書かれる歴史は書斎の中でも可能ですが、生きる歴史はまさしく生活を生きねばありえないのです。幾多の変革に際して、人は傷ついてきましたが、認識することよって書斎で傷つくことはまれでしょう。

 しかし私はここで生きる歴史と書かれる歴史の優劣を述べようとしているのではありません。そうではなくて私が指摘したいのはただ一点のみです。講座でも申し上げましたように、書かれる歴史は時間を自由に移動するということを通してはじめて可能になるわけですが、それが同時に書かれる歴史の限界ともなっているということなのです。

 時間を自由に移動できるということは,認識の自由さによるものです。この認識の自由さが,生きる歴史が決して見ることができないものを必然的に見てしまうのです。ここにひとつの変革がなされました。変革は時間を経て、ある結果を招来します。生きる歴史は結果を予想はしても、書かれる歴史のような確定した事実を持ってはいません。生きる歴史は未知に面していますが、書かれる歴史は必然の世界を眺望します。

 譚嗣同は未知に直面し、そこにおいて自らの意志で死んでいきましたが、後世の人は譚嗣同の死を既知のこととして、仮説を立て、類推し、結論するでしょう。そこに、譚嗣同その人が死に向うときの未知は存在しません。

 ですから認識の自由さは、認識そのものが持つ必然的な性質ですが,それはそのまま歴史を認識するときの決定的な人工性にもなっているのです。書かれる歴史は見えすぎるのです。生きる歴史は適度に暗いのです。明かるすぎる電灯は不自然ですし、ときには人の目を痛めます。時間を自由に行き来できるのは、人がすばらしい道具を用いていることになりますが、人そのものが歩くのとは本質的に違う状態なのです。

 あとはあなたの若さの柔軟さで、私のことばと論理の不備を超えて行ってください。

46 待合室で読む本

 田所さんは冬になるときどき風邪をひいて梨本医院に行きます。田所さんはこどものときから梨本先生に診てもらっています。それどころか田所さんのおとうさんとおかあさんも梨本先生に診てもらっていました。おとうさんはもう亡くなりましたが、おかあさんは健在で今は田所さんの妹とそのご主人と一緒に大角市に住んでいます。田所さんのこども、つまり高彦くんと安彦くんももちろん先生に診てもらってきました。

 診察が済んでから、ときどき田所さんは先生に話しかけます。

「先生、私はむかしよく先生に往診していただきましたが、そのときチョコレートをいただいたことがありました」

 横にいる看護婦さんが、まあというような表情をしています。田所さんは小さなころがなつかしくなってもう少し続けます。

「私が診察を終えて帰ろうとしましたら、玄関のところで、先生がちょうど往診に行かれるのと重なって、私を家の近くまで乗せていってくださったことがありました」

「へえーっ、そんなことがあったかね」

先生も楽しそうに笑っています。田所さんはもう少し付け加えたくなりました。 

「先生はそのとき黄色のフォルクスワーゲンに乗っていました」

当時、フォルクスワーゲンは、あこがれの車の一つでした。

「そうだったっけねえ」

先生はすでに幾度も車を乗り換えていますから、そのとき私を乗せてくださった車まで特定はできないでしょう。あのころ私は中学生で、先生も四十代の若さでいらっしゃったでしょう。

 田所さんはとっさに先生のむかしの診察室を思い出します。それはそれはすてきな診察室でした。今の診察室に立て替えられる前の診察室です。待合室はまだ畳でした。南に面したドアを引いて診察室の中に入ると、先生が正面に腰掛けていらして、その後ろの北側は木製の枠の広いガラス窓で遠く丘陵の林が見えています。こどもだった田所さんはそうした林の斜面で冬にはよくそりをすべらせて遊んでいました。向かって右側の東側もガラス窓でその外には、確か幾本かの庭木がいつも深い緑をつくっていました。

 診察が終わっても、こどもの田所さんはときどき待合室の畳で、置いてある本を読んでいたりしました。看護婦さんがふと、「あら、まだいるの」とびっくりしていたこともありました。おもえばのどかな日々でした。

 むかしのはなしを済ませて待合室にもどると、この日田所さんが、もし混んでいて待つこともあるかと思って持ってきていた本が、上着とともに置いてありました。本は『古書疑義挙例』という題名で、中国の人が書いた本です。内容は、人が本を作るときどうして原稿の読み違いや活字の組み方の間違いが起こるのか、その原因を追求してそこに一定の法則を見出そうとしたものです。簡単にいうならば読書という行為を科学的に分析したような本です。

 どうしてこんな本を持ってきたかといいますと、こういう本は待合室で読むのにたいへんいいものだと、田所さんはいつの間にか気づいたからです。こうした本はおもしろいことはおもしろいのですが、田所さんの理解力では、読んでいても内容が正確にはわからないところがしばしば出てきます。要するにパズルのようなものなのです。しかし何度も読み直していてなんとか理解できると、ふつうの本とは違ったたのしさに出会えます。それにもしわからなくても、あまり落胆はしません。なぜならば

「だってこんなに混んでいるし、それに私は今日は熱があるんだから」

そう思えばよいのです

 そのとき田所さんの名前が呼ばれました。

「田所さん、お薬ができました」

こうして田所さんは本の世界から現実の世界へと戻って来るのです。

47 意味

 マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』という本を読んでいると猫のことが出てきます。ブーバーさんは猫が好きなんだなと、田所さんは思います。そこへいくと田所さんは犬が好きです。というよりも、犬といっしょに生活したことが比較的長かったということです。田所さんが高校生のころよく散歩をした犬はラッキーといいました。近所の犬でしたが、田所さんによくなついて、田所さんが散歩に行こうと外に出ると、すぐにわかって飛んでくるのでした。

 こうして二人は林にまで散歩に行きます。秋から冬の林は明るく、上空にどんなに強い風が吹いていても、林の中はいつも静かで暖かでした。

 しばらく歩いてから、日だまりのところに出ると田所さんは腰を下ろしあるいはあおむきに寝て冬の空をながめます。そのことを確かめると、犬は林の中を枯葉を飛び越えるようにしてはるか遠くへと走っていきます。そのカサカサという足音がいつか聞こえなくなり、じっとしているとまたどこからかガサガサと枯葉をかき分けて走って来る犬の足音が聞こえ、あっという間に田所さんの頭上近くを飛び越えるようにして、今度は反対の方向へ走り去っていきます

 そんな楽しいひとときを田所さんは何回となくラッキーから与えてもらいました。

 ですから田所さんがなにか考えようとすると、ブーバーさんの猫ではありませんが、ラッキーのような犬が登場することになるのです。

 田所さんはときどき意味ということについて考えます。田所さんの中で意味というのは価値ということばと対になっています。田所さんの意味というのは、だいたい次のようなものです。

 男は外に出てから思い出します。

「いけない、犬にお出かけの挨拶をしてこなかった」

 男は外に出るとき、いつも犬の頭を何度かなでて、ことばをかけてから出かけてくるのです。今日はあわてていて、それを忘れました。もしかしたら犬はまだ私が自宅にいると思って、待っているかもしれません。男はここで迷います。一度家に帰れば約束の時間に間にあいそうもありません。どうするか。男は結局家に戻ることにします。なぜなら犬が男を待っているからです。正確にいえば、待っている可能性があるからです。男にとって犬の頭をなでてやることには、意味があるのです。社会的に見たら、男はそのまま出かけて行き、約束の時間に間にあった方があるいはよかったかもしれません。それが一般的にはその男についての社会的な価値なのです。でも男は個人的に意味のある行為の方を選びました。

 田所さんはこの話が気に入っていて、親しい何人かに話したことがありました。その人たちは「そうですね」といって一応この男の行動を肯定してくれます。しかしだいたいはそれだけで終わってしまい、あまり気にも止めないようでした。

 田所さんはこの話で、意味と価値とどちらがより重要かというようなことを言おうとしているのではありません。意味と価値とが違った領域で働くものであることを述べようとしたのです。

 田所さんには、意味というものは生きているものの間でしか成り立たないように思えるのです。生きるもの同士が互いに交流しようとするとき、あるいは相手が物質であっても少なくとも交流し得る可能性があると思うとき初めて成り立つものと思われるのです。意味とは、意志を確立した二者が存在しなければ、ありえないことのように思われるのです。          これに対し、価値は「そのような価値がある」と言い、あたかも価値自身で自立しているようにみえることがあります。社会的な価値とは、社会の中で認められ多くの人があまり細かく考えなくても従うことができるものなのです。価値は生きているものすなわち人間が、人間を含めた社会全体に対して一方的に与えるものなのです。一般的にいって、時間に遅れてまでも犬の頭をなでに戻ることにはたいした価値はないとみなされるのではないでしょうか。確かにそれでよいのでしょう。みんなが犬の頭をなでに戻っていたら、電車が遅れ、事故処理が遅れ、配送が遅れたら、社会はきっと混乱するでしょう。

 それでもほんの何人かは家に戻って犬の頭をなでるでしょう。そういう人が必ずいるのです。人間はなんと多彩ではありませんか。人間は社会的な価値を一端離れて、そういう行動をとることもできるのです。

 そしてこうしたことの哲学的根拠は、ブーバーの『我と汝・対話』の中にすでに整然と書かれているように思われます。田所さんがここで述べた話も、この本に触発されて思い浮かんだことかもしれません。梨本医院の待合室でも何度か読んだ記憶があります。

48 手紙

 本を読んでいるときはときが静かに流れると述べていたのは、吉田健一さんであっと思いますが、文学の中心はもうそれで尽きているでしょう。ですから私がここでさらに付け加えるのはその周辺のことに過ぎません。文学は防御になるというのが、私の結論です。何の防御であるかというと、心とかたましいとか人生とか、そんなふうに呼ぶものに対してです。

 ここでいう文学とは、詩や小説で代表されるいわゆる文芸にとどまらず、ときには新聞の断片や広告の文面にまで及びます。戦争で兵士が、薬の効能書きを何回も読みなおしたという話を聞いたとき、戦争の悲惨さとその中でのかすかなやすらぎとが私の中で混在し、それと同時にその混沌の中からも私は文学の防御を感じとっていたのです。

 私は、ここでは心ということばを使うことにします。文学は心を防御するのです。人の心は傷つきやすいものだと私は思っています。なにもなければ、多分容易に傷ついてしまうものではないでしょうか。文学が人の心を救うことができるかどうか、私にはよくわかりませんが、傷つきやすい心に一定の防御を与えることはできるのではないでしょうか。

 河上徹太郎さんの『有愁日記』の中で、私が幾度か読み返したのは、マラルメやラフォルグの詩のことを述べていたところです。「シンバルを叩いたような秋」ということばを私は見なれた日本の澄明な秋に置き換え、自らの周囲にある黄金色の黄葉に対比していました。たわいないことと言えますが、それでもこのマラルメのことばが、ときに沈んだ私の心を引き立ててくれたことは確かでした。しかしもし私の心が沈んだままだとしても、このことばを通してひとつ秋が私の前に現前し、その実在感は、私が実際に見た秋の記憶と決して遜色のない印象を私の心に与え続けてきたのです。私の中の実在感はこの「秋」の経験にとどまらず、いろいろなことばを通してそこからの新たな実在感を私に与えてくれるのでした。

 「天使の優しさで降る雨」と言ったのはラフォルグだったでしょうか。こうしたことばが私の心にひとたび定着すると、雨はいつもその優しさで降るのでした。単純と言えばこの上なく単純ですが、きっとこうした経験は誰にでもあるでしょう。それを私は自らの喜ばしい経験としてとらえ、大切にはぐくんで来たといえるかもしれません。両方のポケットを何回裏返しても、出てくるのは屑ぼこりだけだった私の数少ない財産がそうした断片的なことばの集積だったのです。

 河上徹太郎さんからは多くのことを教えてもらいました。それらが青春の私の心を防御してくれたのです。葛西善蔵の「子をつれて」で父親がこどもと一緒にガラス戸を開けて食堂へ入っていくところは、私に限りない安堵感を与えてくれました。その安堵感のどこかに「子なるキリスト」の投影があったのかもしれませんが、そうした自己分析はいわばその論理性そのものに邪魔されて心のより深いところへは遂に行き着かなかったようです。 論理はときには容易に体系の一部に組み込まれるものですが、感覚はそのどこにも属さず中途半端なままにその主張を止めないでくれることがあるものです。文学はしばしばそのような役割を心の中で演じましたから、理詰めで説教する親のことばとは違って、部屋に戻って聞く聞きなれたカントリー・アンド・ウエスタンのように心に染みてくるのでした。

 もしも私の若い心に葛西善蔵の「子をつれて」がなかったなら、私の心は近づいてきた任意の宗教に心動かされたかもしれません。その方があるいは幸せとなったかもしれませんが、私自身はそうした方向をとることなく、幾度も彷徨を繰り返しながら現在にまで来てきてしまったということになります。「子をつれて」の風景は私の心の中で未分化なまま、今も深い安堵感を私に送り続けてくれるのです。同様に「天使の優しさで降る雨」は冷たくぬれた私の心を、あたたかな優しい世界へと変えてくれたのです。

 ことばは別に魔法使いではなく、マジックでもなんでもありません。それはひとつのメッセージを伝えて寄越すに過ぎません。ただそのメッセージは、画家が作り出す色彩が画面の奥から光をともなって輝き出すように、人の心にひとつの実在となって届くのです。往々にして未熟な自らが体験したこと以上の実在感をともなって。そういうメッセージのいくつかが重なると、傷つきやすい心はまるで頑丈なビーバーの巣のように、大きな熊からもその子を護ってくれるのです。どんよりとした空にシンバルの秋を感じ、子をつれたわびしい父が暗いはだか電球の明かりの中から至高の優しさを読むものに贈ってくれるのです。

 文学がひとつの付加価値として防御能力を持っているというのは、以上のようなことなのです。

49 時雨

 外は冷たい雨が降っています。この雨できっと枝に残った葉もきっとあらかた散って行くでしょう。もうすぐ冬が来ます。ラフォルグが天使の優しさで降る雨と言った、そんな雨です。田所さんは俳諧七部集『猿蓑』巻頭の句、初時雨猿も小蓑をほしげなり、を思い出していました。田所さんは,この句に特別な思い出があるのでした。

 もう遠くなった日々、中国語を学び始めたころ、田所さんは自らのアイデンティティの揺らぎの中にいました。発端は簡単なことでした。中国語を学んでいる自分はいったいどこにいるのかということでした。辛亥革命から五四運動を経て、統一抗日戦線成立へ向う中国の近代が、それまで歴史にまったく疎かった田所青年の胸に重く迫って来ていたのです。高校の教科書でひととおりの知識は持っていました。しかしそれと違ってことばを通していわばより直接的に入ってくる中国の近代は、実在の人が話しかけるように身体に響いてくるものがありました。そのとき若かった田所さんは、歴史に向かいあう自分がまったく空白であることを感じていました。

 空白な自分が、ひとつの外国語といえども、果してほんとうに学ぶことができるのだろうか、そういう問いが田所さんにいつも答えを求めていたのです。そんなに深刻に考えなくても、というのは何がしかの基盤をすでに自己のうち持つ、空白でない人だから言えるのです。何も持たないままに立つということはつらいことでした。哲学は茫然と立ち尽くす形をとると言ったのは、ヴィトゲンシタインであったでしょうか。そのときはまだそんなことばも知りませんでしたが、事実は立ち尽くす以外に何もできなかったのです。田所さんは初めて世界と向かい合ったとき、自らのうちにあって自らを支えてくれるものがなにもないことをこのときはっきりと知ったのでした。その解決のためには、明らかに、それまで学んできた知識とは違った種類のものを必要としました。外界に向ったときに、そのことの上に立って自分が考えることができる、そのための確実な基盤が求められているのでした。それはたぶん自らが生きてゆく中で、生活の無数の断片をつなぎ合わせるようにしながら、時間をかけて少しずつ出来あがっていくものであったのかもしれません。しかし、そのとき,田所青年はその生成をゆっくりとは待っていられなかったのです。自分が空白のままで歴史に向かい合い続けることは、比較を許さない苦しいものであったのです。

 中国語を学んで初めての冬を迎えようとしていました。田所青年は,その日バスに乗って都心に出かけて行く途中でした。時雨がバスの窓を青緑色に濡らして流れ落ちていました。乗客は少なく、車内は静まり返っていました。青年は窓の外を見やりながら、この半年あまり考え続けてきたことに、ほとんどなにひとつ進展がなかったことに気づいていました。このまま進むのはつらい状況でした。

 そのときふと、芭蕉の『猿蓑』の句が思い浮かんだのです。どうしてそうなったのかはわかりません。窓外の時雨が、どこからか記憶を呼び起こしてくれたのかもしれません。青年はこのとき即座に、この場所に戻ろう、ここからなら確実な一度を歩き始めてみることができるかもしれないと思ったのです。『猿蓑』の句はほかに何一つおぼえているものはありませんでした。ただこの一句をどこかでおぼえただけなのでした。新しい出発にとっては、それで十分なものでした。

 青年にとって、世界は時雨と同じでした。青年もまた小さな蓑をどうしても必要としていたのです。傷を負いやすいたましいは、どうしても防御されねばならなかったのです。文学はひとつの防御です。

 青年はそれからしばらくの間、『去来抄』を読んで過ごしました。それは全体でも短く、一つ一つの文はさらにきわめて簡潔でした。それが疲れていた青年にはふさわしかったのかもしれません。下京や雪つむ上の夜の雨、去来抄でおぼえたこの句は、のちに奈良京都をたずねたときに、幾度か思い出すものでした。結局青年は、自らが付ける小さな蓑として、京都のにおいやかな美しさを離れて、ひっそりとした奈良を選ぶようになってゆきました。その出発点はこうした去来抄などからもたらされていたのかもしれません。

 夜の雨かげろう窓に震えおり

その翌々年の夏、もう落ち着きを取り戻した田所青年が、自分の部屋から見たままによんだこの初夏の夜の風景にも、きっと去来抄の下京の句がその深いどこかでつながっていたかも知れません。 

50 クリスマス・リース

 十一月に入ると田所さんはもう落ち着かなくなります。なぜならクリスマス用のリースを作らなければならないからです。去年もおととしも作りました。本屋さんで雑誌を見ると、すばらしいリースがいくつも写真になっています。一つ一つがみなすばらしいのです。新しいヒントなり新しいセンスが必ずどこかに含まれています。こんな方法があったのかと、田所さんは感歎します。そしてそのイメージをしっかり頭に記憶しようとします。でも悲しいことに、なかなか記憶できないものです。そのときはいちばん気に入ったものを一冊購入します。そうすると、急に自分が豊かになったような気がします。もう今年のリースを完成させたような気がしてくるからです。

 それからは夜、ときどきリースの構想を練ります。田所さんはリース作りにおいて初めて偉大な芸術家の心境が少しだけわかったような気がしました。言ってみれば、作品はあくまで結果なのです。制作は確かに労力を必要としますが、それは一連の作業であって,ひとたび流れができてしまえば、それほどとどこおることはありません。問題は全体の構想を考えているときなのです。作品のイメージがすっきりと確定しないと、作業にかかれないのです。しばらく悩んでいて、あるときふとこれでやってみようと思います。なにかからだ全体に非常によろこばしい感じがするときこそ、願っていたものが出現したときなのです。発見とはそういう全身的なものだと、数学者の岡潔先生がかつて書いていらっしゃいました。

 おととしは黄色の千日紅を一杯に使って華やかなものにしました。去年は麦の穂を使って豊穣な実りを表現しました。二つともかなり大きなリースで玄関の外に飾りました。今年はどんなものにしようか、田所さんはまだ迷っています。妙さんがその神妙な顔を見て、「また、クリスマスがやってきたわ」と言います。考えていることが筒抜けになっているのです。

「やっぱり華やかなものがいいね」と田所さんは思います。

「そうね、あかるいほうが私もいいわ」と妙さんも同調してくれます。

「もうラジオのAFNを聞いていると気が気じゃないんだ、サンクスギビングがあっという間に来てしまうからね」

 田所さんは英語の勉強もかねて、AFN放送をときどき聞いています。サンクスギビングの七面鳥が終わると、放送はクリスマス一色になります。そこまで行ったら大変です。田所さんもアメリカの誰かに負けていられません。クリスチャンではありませんが、リースだけは、もっとも信仰深い人も感動するようなものを、田所さんはめざしているのです。でも実際に評価してくれるのは、田所さんの家族とお隣の鍋島さんの奥さんです。ご主人は草木が好きですが、奥さんはイルミネーションが好きなのです。奥さんは毛虫とミミズとクモが大の苦手ですから「庭仕事はちょっとね」といつも言っています。そのかわり室内のイルミネーションはがんばります。間もなくきれいな丸いイルミネーションが鍋島さんの窓辺を華やかに彩るでしょう。田所さんもリース作りを急がなくてはなりません。

「ぼくは芸術家にならなくてよかった」というのが、このころの田所さんの口癖です。

「ほんと、よかったわ、世界のためにも」というのが妙さんの答えです。

 こんなふうにして一日一日とクリスマスが近づいてくるのです。

51 部屋飾り

 田所さんの家の部屋には、いくつかリースが飾ってあります。これは田所さんの家の数少ない特徴のひとつかもしれません。それらのリースは、玄関のドアの内側に飾ってあるものを除いてすべて田所さんが作ったものです。

 田所さんがこの家に移ってきてまもなくのころ、妙さんの職場のお友達が、新築祝いに手作りのリースを贈ってくださったのです。それが玄関の内側のリースなのです。それはラベンダーを主体にこまかい花をていねいに付けた大きな作品で、前から高原のお店でなどに置いてあるリースが好きだった田所さんはこれでいっぺんにリースのファンになってしまいました。

 「こういうのを、ぼくも作ってみたいなあ」と妙さん伝えると、「じゃあ今度、ドライフラワーを買ってくるわね」ということで、制作の機運が一挙に整ってしまいました。

 そこで近くにあったホームセンターに行ったときに、土台となるリースとロウとロウを溶かすスピードガンを買って来ました。これだけあれば何とか作ることができるのです。ドライフラワーも少しずつ買い足して、リースをいくつか作る材料ができました。あとはどのようなかたち・デザインにするかです。妙さんも誘ったのですが、「おとうさん、とりあえずひとつ作ってみて」ということになり、田所さんがチャレンジすることになりました。見本となる作品は玄関の内側に飾ってありますし、本にもすばらしいものがいくつも載っています。とにかく挑戦です。比較的太いつるで編んだ中くらいのリースで作ってみることにしました。黄褐色の花と月桂樹の葉でシンプルにまとめようと思いました。花をアレンジしてロウで付けてから、さて月桂樹の葉を付ける番です。本にはこのとき葉をリースの輪にそって一周するように付けるものと、左右から対照的に頂上に向って付けるものとがありましたが、田所さんは後者を選びました。この方が作品例としては少ないようでしたが、なんとなくそうしました。

 出来あがってみるとこれが意外によく見えるのです。妙さんもちょっと驚いたようで、「なかなかすてきだわ」と言って、ほめてくれます。リースはドライフラワーを用いますが、出来あがってみるとその感じは、もうドライフラワーとは異なったものになっています。落ち着いた色合いの花もそうですが、なんといっても月桂樹の葉がすばらしいのです。なぜ、古代ギリシャで月桂樹を勝者の額に置いたかがよくわかりました。その葉はまとまるとなんともいえない気品があるのです。

 田所さんは早速これを部屋に飾ってみたくなりました。部屋のいちばんいいところを考えてみました。それは、居間の南側の庭に面したガラス戸の上の壁です。やっぱりこの壁面が中心です。部屋のどこにいても、ここに視線が集まります。妙さんも同様の考えでした。踏み出しを出してきて実際に取りつけてみますと、手に持って見ていたよりも、また一層すばらしく見えるのです。田所さんはなんだかうれしくなってしまいました。これは田所さんの技量によるのではありません。素材とその取りあわせのすばらしさなのです。

田所さんはなぜ多くの人がリースを作り飾るのかが少しだけ理解できるような気がしました。これは自然の営みをそっと静かに部屋に再配置することなのです。花や葉はそうすると自然に輝き始めるのです。

 このベイリーフのリースが田所さんの部屋に飾られた最初のリースです。この家に移ってきた秋のことでした。それから田所さんはひまを見つけては、リース作りに励みました。そう言うのがふさわしいくらいに、いくつも作ったのです。

 今では田所さんの家には全部で十いくつかのリースが飾られています。玄関に三つ、一階のトイレに一つ、二階のトイレに一つ、階段に二つ、二階の田所さんと妙さんの部屋に一つ、安彦くんの部屋に一つ、二階の壁に一つ、そして一階の居間がいちばんすごいのです。なんと十四畳の広さの壁面に九つも飾ってあるのです。いつのまにかこんなに増えてしまいました。ですから田所さんはいつも家族の寛容さに心から感謝しているのです。

52 歳晩

 田所さんは年の暮れが好きです。なにか人生が圧縮されてそこにあるような気がするのです。一年を無事に生きることはなかなか大変なことだと、中学生のころからずっと好きだった紅茶を、今は妙さんに入れてもらいながら思うのです。そんな感慨を以前はあまり持ちませんでした。カフカではありませんが、生きることが奇跡なのでしょう。今年もなんとか健康で、ローンも車と冷蔵庫とがまだ幾月か残っていますが、それも今のまま行けば何とかなるでしょう。こどもたちは二人とも、今年もよく動き回りました。そしてそれよりはより少なくでしょうが、適度に勉強もしました。「勉強って趣味ではないから」とか言いながらも、兄の高彦くんはときどきは図書館に足を運び、そこできっと、大型の重い美術書を閲覧したことでしょう。「あれだけの本を買ったらたいへんだね,おとうさん」とときどき話してくれました。田所さんはそれで、高彦くんの勉強の進展がなんとなく想像できるのでした。弟の安彦くんは、今年もひたすら友達と自転車に乗って町を走り、体力を、より正確には脚力を充分につけたでしょう。

 それでは田所さんは一年間いったいどうだったのでしょうか。進歩はあったのでしょうか。田所さんは、自らを楽観主義者だと思っています。ときどき「日日真面目あるべし」という会津八一の学規を反芻しながら,古都奈良や京都の風情を思い起こします。冬の奈良を田所さんは幾度か訪れています。でも歳晩の奈良を訪れたことは一度もありません。

 田所さんは定宿と言うほどではありませんが、奈良によく泊まる安い静かな宿を一軒持っています。冬のお客はほとんどいつも田所さん一人で、食事は朝食だけですが,それも一人で食べることがよくありました。

 そのころ月良館はもう一般の宿泊をおしまいにしていましたが、ある日ふとおばちゃんの顔が見たくなって、会いに出かけたことがありました。おばちゃんはいつものように板の間に端座して迎えてくださいました。泊まっていったら,とおっしゃってくださいましたが、もう正式には宿泊客をとっていないことを知っていましたから、「おばちゃん、いつものところに泊まっているから。ただおばちゃんの顔が見たくて」と挨拶しました。

 田所さんは、月良館に泊まったころの、自らの第二の青春の日々をなつかしく思い出します。三十代初め、田所さんがふたたび大学に戻ったころ、歴史を学ぶ数人と月良館に泊まったころのことです。多くの年長の方々がその思い出を語っておられるように、一階の玄関前の板の間で、みんなで食べたすき焼きは歴史を追って歩いた一日の疲れをこころよく解きほぐしてくれるようでした。田所さんは、そこでいただいた、おばちゃんによれば「自分たちの食べ料」の鰹節でからめて煮たこんにゃくのおいしかったことを、今も忘れないでいます。それはもしかしたら誰もが一度は持つ青春を生きるものの幸せな特権であったのかもしれませんが。

 月良館の夕食を終えた明かりの灯る部屋で、壁に寄りかかって新聞を読んでいる田所さんを、友人が撮ってくれた写真がありました。寒い二月のことで、まだ新婚間もないころの妙さんが編んでくれたアイリッシュ・ウールの太い毛糸のセーターを着ていて、田所さんはいかにもゆったりとしてそこにいました。そのころ東京と奈良,この二つの都市を思うことは、田所さんにとっていかなる国際都市を思い描くよりもより国際的でした。

 そのときのカメラは、田所さんが持っていたニコンのF3で、そのころ自ら進んでおこなった手伝いに対して、思いがけずにいただいたお金をほとんど全額使って購入したものでした。このカメラは今も完全に作動し、いくつかの壊れていったカメラとは別に,一線を画す頑丈さがあります。このF3でずいぶん奈良京都を撮りました。その中の記憶に残るものの一枚に、一日の予定をこなし、海竜王寺の前のバス停で私たち一行が奈良へ戻るバスを待っている写真がありました。撮った田所さんはもちろん入っていませんが、そのときの一行全員がめいめい違った方向を向きながら、話したり景色を見たり、ガードレールに寄りかかったりしながら,バスを待っているのです。まるで二月なのに早春の微風が吹いているかような午後のおだやかな静かなひとときでした。時よ止まれ、おまえは美しい。確かに写真はその事実を伝えていました。

 彼らは今、みんなどうしているだろう。私より十歳若いほんとうの青春にいた人たち。あなたたちの日々が、あのバス停でのまなざしのように、めいめいに遠くを望んでいたように、いつまでもさわやかであってほしいと、今も田所さんは思うのです。訪れたことのない、歳晩の奈良をこうして思い描きながら。

 田所さんは、今もあるいは今になって初めてといったほうがよいのかもしれませんが、私は奈良へ留学したのだと思うようになりました。多くの人が外国で学ぶように、他から切り離されて一人深く、田所さんは冬の奈良で多くのことを学びました。それは歴史学でも歴史研究でもなく、歴史をです。それだけでもう十分でした。そして今もその延長を生きています。 

53 見知らないあなたへ

 私の講座を聞いてくださった年若いあなたへこの手紙を届けます。と言っても、あなたのお名前がわかりませんので、この手紙は直接あなたのところに届くことはないでしょう。この手紙は、私が属する仲間との小さなペーパーにひとつのエッセイとして載るでしょう。それが何らかの方法であなたのところに届くことを祈ります。

 あなたは、「深い悲しみの中にある」と書いておられました。それがどのようなものであるのか、今の私には全くわかりません。また私は敢えて知ろうとも思いません。人の悲しみは、そんなに簡単に伝えられるものではないことを、私は私なりに理解しているからです。聖書の詩篇の中に「我空に向いて目を揚ぐ、我が悲しみは何処より来たるや」とあります。悲しみはゆえ知らない遠くから訪れるのでしょう。

 悲しみはひとつの傷です。ですからそれは、時間をかけて治さなければなりません。あらゆる傷がそうであるように。悲しみの回復には、どうしても時間が必要なのです。しかしその時間とは物理的に流れる時間だけではありません。もっとも大切なものは、ひとつの時間を愛するものに向けて生きる、そのときの時間なのです。時間を愛するものに向けるとき、人は愛するものと時間をともにしているのです。

 たとえばここに先週買ってきた、小さな花の苗があります。少し弱っていますが、土におろせばきっと元気になるでしょう。苗は自らが持っている力によって少しずつ伸びて、いつか花を咲かせるでしょう。このとき花とあなたとの関係は見られるものと見るもの、それだけの関係でしょうか。もしそうであるとしたならば、それは、遠い野にある一輪の花の場合と異なりません。

 庭にある苗はほんとうにそのようなものでしょうか。多分違うだろうと思います。あなたはある日、窓辺からその苗に視線を落とします。このときあなたは思いたって水をやらなくても、よいのです。いつか雨が降るでしょう。敢えて行動しなくてもいいのです。

 それでも苗は決して孤立しているわけではありません。他の草花とともに、あるいは他の草花の陰に隠れているときはさらに必死に、太陽を浴びようとし葉を延ばそうとするでしょう。夜になるとあなたの窓に光が灯ります。苗はその光をかすかなりとも浴びるでしょう。あなたが弾くピアノが夕暮れの大気を震わせます。それを苗の葉はやはりかすかに受け止めます。

 そしてあなたの心のどこかに、土に下ろした苗の記憶が残っています。記憶は人に生きる契機を与えるのです。だからあるときあなたはふたたび窓辺を見やるのです。ひとつの苗があなたの行動の契機をなしています。苗とあなたはもはや決して無縁ではありません。それならばです。それならば、ひとつの苗にあなたの愛を注ぐこともできるでしょう。夜寝る前に一瞬でいいから苗のことを思えばいいのです。明日枝は少し延びるだろうか、花はいつごろ咲くのだろうかと。

 こうしてひとつの時間をあなたは花と共有します。一月後の開花をあなたは期待します。人は不分明な未来を花と共有できるのです。あなただけが孤立した時間の中を生きていたのではありません。多くのものたちが共有する契機に気づかなければ、孤立した中で生きることになります。しかしたったひとつの契機によって、人は愛するものと時間をともにして生きることができるのです。それでいったい何が変わるかとあなたはたずねますか。それならば、そのときはすべてが変わると私は答えます。世界は一瞬にして変わるのです。誇張ではありません。流れる時間の質が根本的に変わるからです。孤立して生きる時間ではなく、一輪の花と未来を共有する時間に変わっているのです。少し前まではそうではなかったでしょう。園芸センターで、先週あなたがひとつの苗を買うまでは。それを奇跡と言うなら、カフカが言ったように、生きることは一瞬によって奇跡となるのです。

 カーソン・マッカラーズが言ったように、ひとつの雲を愛することから始めようではありませんか。いつか人を愛するところにまで到着するかもしれません。しかしもし、ひとつの純粋状態として、あなたが永遠に孤独であったとしても、それは決して愛というものの存在を、あなたにおいて否定するものではありません。なぜでしょうか。答えは単純です。愛は物理的な存在ではないからです。

 愛はただ方向のみを持つ存在なのです。あなたは方向のない世界を想像できるでしょうか。私には不可能です。人が悲しみに打ち沈んでいるとします。人の顔は深く大地に向けられらています。悲しみの中においても、人はなお方向を持つのです。あなたからすべての方向を取り去ってください。そうしたらあなたは完全に孤独になれるでしょう。でもそれは多分不可能でしょう。あなたは絶望して顔を横に振るかもしれません。そのときでさえ、あなたはひとつの方向を選択しているのです。詭弁でもレトリックでもありません。どんなときもひとつの方向を選択させる何かがあなたの中にあるのです。それが生きることを愛することだと思うのです。

 愛とは方向なのです。だからマッカラーズが言っています。まず私たちは雲を岩を木を愛することからは始めようではないかと。

 どうか元気になってください。

54 雑踏



今日は十二月十七日、金曜日、みんなで立山市に集まり、買い物をすることになりました。立山市は田所さんの住む町から電車で20分ほどで着きます。田所さんは午後休暇をとり、安彦くんが学校から帰るのを待って出かけました。駅までは車で十分ほどです。車は駅の近くの広い有料駐車場に停めて電車に乗りました。安彦くんと一緒の電車は久しぶりです。とっさに思い出しても、夏休みの終わりに家族で展覧会に出かけたとき以来かもしれません。

 今日はみんなでクリスマスプレゼントを買うことになりました。田所さんのところでは誰がいったいサンタさんなのか、今ではもうわからなくなりました。以前は田所さんと妙さんが、二人でその年兄弟が好きだった遊びやゲームを振り返りながら、クリスマスのためのプレゼントを用意しました。ただ狭いアパートでは包装を痛めないようにしてしまっておくところがなかなか見つからず、仕方がないのでクリスマスイブまで車の後ろにいれておくことが何年かあったりしました。クリスマスの当日はアパートのベランダに兄弟のプレゼントを置いて、サンタさんはきっと外から来ると思うからベランダを見てごらん、そんなふうに言って、兄弟がほんとうにうれしそうに目を輝かせていたのは、いつごろまでだったでしょうか。いつのまにかそうしたイベントもなくなりましたが、それでもクリスマスカードだけはその季節の大事なたのしみとして残りました。デパートなどで二人して待ち合わせて気に入ったものを選び、兄弟二人にそれぞれの一年のことなどを書きしるしながらプレゼントとともに手渡すのです。

 それでは今ではもう兄弟二人のなかにサンタさんがいないかというと、それはなんとも微妙なことで、想像するに、きっといまでも二人の中にサンタさんは実在するのではないでしょうか。親がプレゼントを用意してきたことも、こっそりとプレゼントが置かれていたことも、二人はもうよく知っています。でもそのことは、この世界における真実のサンタさんの実在を否定することには少しもならないのです。弟の安彦くんはもちろん、兄の高彦くんまでが、クリスマスが近づくころになると、「サンタさんはぼくたちの願いを知っているのかなあ」と田所さんや妙さんに話しかけることがあるのです。父親や母親は今でも、二人にとって真実のサンタさんの一時的な代行役であるだけなのかもしれません。田所さんにしたって妙さんにしたって、自分たちが用意したプレゼントの、真実の贈与の行為が二人だけでほんとうにできただろうかと聞かれれば、一瞬とまどい、そして神さまという答ではないとしても、少なくともこの一年の見知らない多くの出来事の果てに兄弟へのささやかなプレゼントが存在していることをたやすく否定することは、二人には多分できないでしょう。なぜなら四人が健康でいられたことひとつをとってみても、私たちはほんとうは誰に感謝すればよいのでしょうか。

 大角市にいる田所さんのおばあちゃんも、足が痛いのを除けばまずは元気で一年を過ごすことができました。一緒にいる妹夫婦への感謝を含めて、暮れのうちに一度訪ねようと田所さん夫婦は思っています。

 二人の仕事もだいたい順調に進んできました。しかしそれでも高度経済成長というものがもはや決定的に過去のものとなったことを、この一二年のうちに田所さんは自らの感覚ではっきりと感じ取れるようになりました。既存のシステムは一度根本的に組替えを行わない限り、この現代社会の中ではもはや機能しにくくなったのでしょう。たとえばコンピュータひとつの購入をとってみても、従来から行われているメーカー・問屋・小売というシステムは、あまりにも間接的な伝達システムとなってしまいました。かつては有効に機能したはずのこの間接伝達のために、現在ではあまりにも多くの人員と資金とを必要とし過ぎています。メーカーが直接的な生産システムを持ち、同時に購入者へ直接的な販路を用意して、可能な限りの最短時間において最新の希望に応じられることがどうしても必要となってきました。従来のシステムでは何回か会議を繰り返しているうちに、時代が会議を取り残して行くでしょう。ですからこれからは多分世界最大とか世界最高という形容に対しても、人はあまり敬意を払わなくなるでしょう。世界最大ではあまりに大きすぎて、どこかできっと機能不全をおこしていると感じられますし、世界最高ではその価値があまりにも超時代的で恒久的であることを前提にしすぎていますし、ときにはきわめて尊大な態度さえも予想されるからです。

 田所さんが属する流通業の世界にも、いままでの考え方ではどうしても処理できない問題が出て来ています。たとえば現在では新製品のニュースは、インターネットなどを通じて生産現場から購入予定者へ一瞬のうちに伝わります。購入予定者は当然その最新の製品の使用を希望します。しかし製品の流通形態は、従来のものとそれほど大きく変わっているわけではありません。在庫管理は確かに大幅に改善されました。しかし製品の運輸手段は、少なくとも国内的にはトラックなどの従来のシステムでしか、現在も機能していません。ほかにどのようにすればよいのか、多分誰にもわからないでしょう。ただ今のままでは早晩、大きな問題に直面することだけは多くの人が認識しているのです。排気ガスのことひとつをとっても、効率と環境とを整合するのにまだまだ多くの時間を必要とするでしょう。

 トラックの運転手さんは広島から東京へ、そしてその日のうちにまた広島へと、とんぼ返りしていきます。田所さんはそのエネルギーに驚きながらも、その底にそのようにしなければ、どうしても採算が取れない苦しい現実を垣間見てしまうのです。事実、運転手さんのほとんどは、まだ若い人も含めて必ず腰痛に苦しんでいます。昨日も注射を打ってきたんだよと、まだ若い人から話を聞くたびに、現場ではなによりもその日をまず無事に乗りきることが問題となっていることを再確認します。それはたぶん生産の現場でも同じでしょう。そうして一日一日が過ぎ、今も従来のシステムが多くの問題を前提にしながら行われ続けているのです。

 田所さんはひととき歴史を学びました。今もその延長にあるつもりでいます。しかしその主要な関心は過去の蓄積としての歴史よりも、現在新しく生成されつつある歴史へと変わってきました。簡潔に述べれば、歴史は未来への洞察そのものということになるのかもしれません。

 二十世紀を人がどのように回顧し解釈しても、田所さんはもうそれほど深く関心を示さなくなりました。既知のものを操作してなされる書かれた歴史よりも、未知の、現在葛藤を繰り返しているどこかの現場で生成されつつあるものの方が、田所さんにはより深い関心があるのです。ただそれがいったいどこでどのようになされているかがわかりにくいのです。

 生命科学がそうであったように、コンピュータがそうであったように、金融工学がそうであったように、今もどこかで、現在通行しているインターネットとはおよそ及びもつかないような新しい通信方法がすでに小さく芽生えているのかもしれません。その胎動が耳を澄ませばほんとうはかすかに聞こえているのかもしれません。しかしそれはもう、田所さんや妙さんの世界ではなく、高彦くんや安彦くんの世界であるのかもしれません。

 田所さんは電車の中で、安彦くんの横顔をまぶしそうに眺めました。未来はきみたちのものというよく使われることばが、このときは強く深く田所さんの心の中に入ってきました。

 間もなく電車は立山駅に着くでしょう。妙さんはもう駅の改札口で二人の来るのを待っているかもしれません。待ち合わせ時間を昨日のうちに決めておいたからです。兄の高彦くんは少し遅れるかもしれません。冬休みにかけての天文クラブの打ち合わせがあると言っていましたから。

 立山市は田所さんにとって不思議な街でした。田所さんが自分の生まれた町を出て初めて通った高校がこの立山市でした。その同じ高校に今はこどもの高彦くんが通っています。田所さんが大学を出て初めて社会人となったのもやはりこの立山市でした。この街で一日を終え、そのころはまだ全体がどこか古ぼけていた大通りに面した喫茶店で、同じ会社の年若い先輩とさまざまな会話をしたのもこの街でした。その先輩は大学で地質学を専攻し、田所さんにとってずっと興味があった岩石のことや天体の運行のことなどをいつもていねいに教えてくれました。

 そのころは二十世紀がこんなふうに終結しようとは二人とも考えもしませんでした。そもそも1970年代は思えばまだ高度成長の只中にあったのです。給与は毎年大きく上がっていきました。大量生産と大量消費とが時代の前提条件でした。この街で二人の青年が歴史や天文や地質について話していたときも、当然二人ともその時代認識の中にいました。しかし二人の青年はそれぞれの生き方に素直に従い、その後異なった方向を取るようになりました。地質青年は、自分の専攻を活かしたいと、高校の地学の教員になっていきました。今も元気でいるでしょうか。ぞの優しく広い心のままに、きっとよい先生となっていることでしょう。もう一人の歴史青年は、その後仕事を変え、小さい倉庫会社に勤めるようになり、あらためて大学の聴講生も経験し現在に至っています。

 妙さんと初めて会ったのもこの街でした。二人はある日この街で出会い、しばらくお茶を飲んで別れました。田所さんはその日、そのころ好んで履いていた安物の靴の底がしばらく前に割れてしまい、ほこりと水が染み込むのが不快で、今度はもう少しいい靴を買おうと決めていたところでした。ボブソンとかスポールディングというメーカー名が、流行にうとい田所さんの所にも届き始めたころでした。妙さんは聴講生でもある少し変わったこの男の人が歴史や語学や哲学の話をするのを、その日ただじっと聞いただけで別れました。この人から王国維などという全く知らない人のことをそのとき初めて教えてもらいました。妙さんは、そのころ自分の伴侶として、活動的でさっそうとしている人との出会いを想像していました。ところが偶然に出会ったその人は、さわやかな三月の初めに、どこかよれよれになった黒いジャンバーを着て、色あせた藍色のジーンズをはき、靴はいかにも安物の薄っぺらなスエードがほこりに汚れていました。手に下げた大きなバッグが重そうで、きっと厚い本が幾冊か入っていたのでしょう。高めの背にやせた体で、長めの髪が過ぎて行った六十年代の余韻を残していました。ただこの人の目はなんだかとても澄んでいると、妙さんはそのとき思いました。いつもこの人はきっとこんなふうに遠くを見つめながら歩いてきたんだわ、と思いました。

 そして二人は結婚しました。永島慎二さんのマンガ「ククル・クク・パロマ」のように。そのおはなしの結末は悲しいものでしたが、その分を実在の二人が生きるということもあるのではないでしょうか。

 駅の改札口の外にはもう妙さんがいました。二人に気づくと小柄な背を伸ばすようにして手をふっています。安彦くんも人ごみの中に笑顔の妙さんを見つけました。少し待てばきっと安彦くんの大好きなお兄ちゃんも来るでしょう。改札口の外のコンコースは年末とクリスマスと間近に迫った冬休みの先取りとで、ごった返していました。

 三人が見やっている南口の方から背の高い青年がやってきます。もう180センチをしばらく前に越えました。黒い半オーバーに黒のコーデュロイのジーンズ、リュックを背にした高彦くんが三人に気づいて手を上げました。冬の夕暮れの雑踏の中に彼の瞳が微笑んでいました。

55 いつかまた

 この物語はここで終わります。この続きが書き綴られるかどうかは、かつて『若草物語』の作者が最後のページで述べていたように、読者のこの物語に対する反応によってなされるのかもしれません。著者の力量はしばらく別にしても、それまでに、部分的にモデルになってくださった人々があまりにも年を取っていないことを祈るばかりです。著者のエネルギー残量からすると、続編の実現は相当に少ない可能性でしかありませんが、もしそれが実現するとしたら、それはきっと高彦くんと安彦くんの二人があまりに大きくならないうちにでしょう。二人が完全に大きくなってしまったら、著者の書き継ぐパワーは今よりもずっと小さなものになってしまっているでしょうから。

 田所さんの書く力は、ほんとうは愛する人々によって支えられているのです。そして同時に、自分自身をかってに「すてきなおとうさん」と思い続けてきましたから、その思いによって、この小さな物語はなによりもなかよし兄弟二人のために、そしていつも明るい妙さんのために、ここまで進めてくることができたのです。著者自身にも書き上げるまでははっきりとはわからなかったのですが、物語はそれ自身出来あがったときに、もっともあたたかくもっとも共感を持って、最初に読んでくれる人々を待ち望んでいるのでした。

 「おとうさん、そんなにまでしなくてもいいのに」と兄弟二人と妙さんとから言われたとしても、この物語は「すてきなおとうさん」が三人へ贈る、過ごされたなつかしい一年への、つたない力を尽くしての愛と感謝の贈り物なのです。

 そして最後にこの物語の続きよりもなによりも、ここまでこの本を読んできてくださったみなさんへ心からの感謝を述べなくてはなりません。

 どうかみなさん、いつまでもお元気でそしてお幸せに。