KAWASKI Tsuneyuki Collection of Papers 2023
川崎庸之日本仏教史論集
いわゆる鎌倉時代の宗教改革について
凡例
1
本書の表題には、著者が1948年に、歴史評論社から刊行された『歴史評論』15 に発表した論考の表題「いわゆる鎌倉時代の宗教改革について」を用いた。
目次
天平年間における伝戒師僧招聘について
上代宗教運動の一形態 -行基の場合ー
正倉院文書にあらわれたる尼公・大尼公・小尼公の呼称について
『書道全集 第9巻 日本1 大和、奈良』 図版解説 79 鑑真書状 80 施薬院奉請文 83 84 東大寺封戸処分勅書 85 86 証東大寺一切経目録牒
日本霊異記の一考察
天台宗教団成立に関する二,三の考察
顕戒論について
最澄と空海 ー最澄の立場から―
伝教大師と弘法大師との交友について
「伝教大師消息」について
最澄と空海 -弘仁七年から同十二年にいたる時期を中心にー
空海の「十住心論」について
慶滋保胤と源信
中世仏教史成立史の一面 ー特に平安朝に於ける浄土教と聖、上人の行業についてー
いわゆる鎌倉時代の宗教改革について
初出一覧
「天平年間における伝戒師僧招聘について」 1981年3月10日(73歳) 『人文学部紀要』15 和光大学
「上代宗教運動の一形態 -行基の場合-」 1933年10月20日(25歳) 『日本宗教史研究』 隆勝閣
「正倉院文書にあらわれたる尼公・大尼公・小尼公の呼称について」1969年3月(61歳) 『東京大学史料編纂所報』3 東京大学史料編纂所
「『書道全集 第9巻 日本1 大和、奈良』 図版解説 79 鑑真書状 80 施薬院奉請文 83 84 東大寺封戸処分勅書 85 86 証東大寺一切経目録牒』 1954年12月20日(46歳) 『書道全集』第9巻 日本1 大和、奈良 平凡社
「日本霊異記の一考察」 1938年1月1日(30歳) 『歴史学研究』8-1 四海書房
「天台宗教団成立に関する二,三の考察」 1932年4月1日(24歳) 『研究評論 歴史教育』7-1 歴史教育研究会
「顕戒論について」 1934年10月1日(26歳) 『歴史学研究』2-6 四海書房
「最澄と空海 ー最澄の立場から―」 1948年2月1日(40歳) 『人文』2-1 人文科学委員会
「伝教大師と弘法大師との交友について」1978年3月1日(70歳)『弘法大師研究』 中野義照編 吉川弘文館
「「伝教大師消息」について」1963年10月6日(55歳)「田山方南先生華甲年論文集」 田山方南先生華甲記念「伝教大師消息」について」1963年10月6日 「田山方南先生華甲年論文集」 田山方南先生華甲記念
「最澄と空海 -弘仁七年から同十二年にいたる時期を中心にー」 1977年1月5日(69歳) 『思想』631 岩波書店
「空海の「十住心論」について」 1975年4月1日(67歳) 『図書』308 岩波書店
「慶滋保胤と源信」 1966年6月1日(58歳)『人物・日本の歴史』第3巻・王朝の落日 川崎庸之編 読売新聞社
「中世仏教史成立史の一面 ー特に平安朝に於ける浄土教と聖、上人の行業についてー』 1934年10月1日(26歳) 『研究評論 歴史教育』 9-1 歴史教育研究会
「いわゆる鎌倉時代の宗教改革について」 1948年4月5日(40歳) 『歴史評論』15 歴史評論社
略年譜
1908年(明治41年)1月16日
東京市赤坂区南青山町に生まれる
1914年(大正3年)4月 6歳
大阪市天王寺第五尋常小学校入学
1915年(大正4年)1月 7歳
東京市京橋区滝山町に転居、尋いで同区元数寄屋町に転居
東京市泰明尋常小学校に転校
六年生のとき、学校長と女子生徒一人と共に宮城遥拝に向かう
1920年(大正9年)3月 12歳
東京市泰明尋常小学校卒業
1920年(大正9年)4月 12歳
東京府立第一中学校入学
この頃英語の勉強も兼ねて麹町教会に通う
1948年に発表した「いわゆる鎌倉時代の宗教改革について」『歴史評論』15・歴史評論社において、冒頭で石母田正の『中世的世界の形成』を挙げながら、「古代ローマ末期の社会における退廃と混乱と迷信の横行の中から成立したキリスト教が中世社会を支配してきた過程」に注目し、親鸞の教行信証において、「確かにそれは法然の宗教そのものの完成であり、或る意味では法然自身そこまで徹しえなかったところを成就したものといわなければならない」と述べている
著者は後年、和光大学の「日本仏教史」の講義において空海の晩年に触れたとき、聖書のイエスのことばを簡潔に引用し、「私は成就するために来た」と述べている。マタイ傳・五・一七「われ律法また預言者を毀つために來れりと思ふな。毀たんとして來たらず、反つて成就せん爲なり。」小型引照つき文語聖書 BIBLE with REF CLASSICAL JAPANESE・日本聖書協会・1969年等を参照されたい
1924年(大正13年)3月 16歳
東京府立第一中学校4年卒業
1924年(大正13年)4月 16歳
第一高等学校文化丙類入学
同年の入学に、のち小説家となる高見順、本名高間芳雄がいる
在学中、大類伸から歴史の薫陶を受ける
一高史談会編『東京近郊史蹟案内』古今書店・3月25日刊の改訂補助に参加
一高の三年間は楽しかったと回想し、和光大学の演習「平安文学と仏教」の新入生歓迎の会で一高の寮歌を歌われたことがあった
「風邪で家に臥せっていたとき、柔道部が練習で家の近くまで走ってきて「川崎出てこい」と言われたのにはまいったよ」と楽しそうに述懐された。
1980年代の和光大学で「一高の同室の同窓会が4人になってしまった」とも述べておられた。「一高と三高の野球の定期戦があってね」とこれも懐かしそうに話された。
1925年(大正14年)17歳
杉並村大字阿佐ヶ谷に転居、生涯の居となる
広い敷地は、「関東大震災後の一般的な区画だった」と述べられた
秋、親族の戸坂潤が来訪し、二人並んで写真を撮る。口絵を参照されたい
大類伸の『西洋中世の文化』冨山房・1925年刊を読む
「なんで歴史をやったのか考えてみるのですが。今考えて、ふっと思い出したのは、大類伸先生に僕が「先生はなぜ歴史をやったんですか」と聞いたら、「好きだからだよ」と一言で片づけられちゃったんだけれども、僕も結局好きだと言うよりほかしょうがないのかな。ある意味では大類さんの影響が、自分の知らないあいだに身についているんじゃないかな。」
「それからもう一つは、大類先生の『西洋中世の文化』(24年)が出たんです。これが恐らく影響したんじゃないかな。歴史に目を向けてくれたのは、結局、大類先生だったと思います。」
「『西洋中世の文化』はなんとなく人を引きつけるところがあってね。こんなことをやれたらなと思ったんです。そういう意味では大類先生に僕は最初の影響をうけたんじゃないかなという感じはしますけどね。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
1926年(大正15年)18歳
この年、フュステル・ド・クーランジュを読む
「フランス語でも歴史を読むのがすきでした。」「あれは僕はびっくりした。こんな歴史があるんだなと」「友人と2人でクーランジュを訳そうかなんて、大それたことを考えた時期も一度はあったんですけどね。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
この年、一高の先輩に勧められ、東洋文庫に新たに開設された「東洋学講座」を受講する。第1回・5月6日の講師は白鳥庫吉、題目は「漢魏時代の西域」であった。『東洋文庫十五年史』東洋文庫・1939年
1927年(昭和2年)3月 19歳
第一高等学校卒業
同年の卒業に高見順がいる
1927年(昭和2年)4月 19歳
東京帝国大学文学部国史学科入学
一高の同級であった高見順は文学部英吉利文学科に入学
辻善之助の薫陶を受け、生涯の師となる
辻善之助編集の『大日本年表』1940年・大日本出版、は「葦編三絶した」と語った
「辻先生の仏教史で、結局、先生についてこつこつやっているのが一番いいんじゃないかなと思ったんです。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
常盤大定から「きみたちにはこれくらいがいいだろう」として、凝念の『三国仏法伝通縁起』3巻・1311年刊、を教授される
常盤大定には『仏性の研究』丙午出版社・1930年刊等がある
1930年(昭和5年)3月 22歳
東京帝国大学文学部国史学科卒業
卒業論文「鎌倉時代初期に於ける新仏教運動について」
「論文提出後に飲んだお酒がおいしかった」と述べられた
「川崎庸之名誉教授インタビュー」において、インタビューアの一人、山本吉左右が「卒業論文は。」と尋ねたのに応じて、「「鎌倉時代初期に於ける新仏教運動について」かな、そんなような題だったかと思います。自宅にもっていっていて、空襲でやられちゃったんです。偶然それが罹災しちゃって。」と述べられているが、これには付言が必要とおもわれる。著者のこのインタビュー以前の直話によると、卒業論文は友人に貸与し、その友人宅が空襲で全焼し、貸与していた論文も消失した、と述懐されている。インタビューでの応答は簡潔であり、著者の自宅そのものは空襲を受けず、罹災していない。
後年、新宿の「あづま」では一番奥の席に坐り、静かなること林の如しと、その酒席を同僚が伝えている
題目の確認は『国史学科卒業論文題目一覧』学生文庫、に拠った
この卒業論文は友人に貸与していたが、その自宅が戦災により全焼し、論文もこのとき焼失した
同年の卒業生に、文学部国史学科に竹内理三・藤木邦彦・寶月圭吾、西洋史学科に村川堅太郎、東洋文学科に江上波夫・野原四郎、英吉利文学科に高間芳雄(のちの筆名・高見順)、言語学科に高津春繁等がおり、後年まで親交を結ぶ。『東京帝国大学一覧 昭和5年度』東京帝国大学・1930年
「亀井高孝という先生がおられて、この人は非常に鋭い先生でした。その先生が大類先生と非常に仲がよかった。僕が大学を出てからね、大類、亀井、それからもう1人、今井登志喜さんという、西洋史の先生から引っ張り回されたという印象が強いんだな。この3人の先生の影響が一番あるんじゃないかと思います。」「その3人は皆一高の史談会の先輩でね、3人が集まって話しているのを、僕はうれしがって聞いていましたけれど、そんなのがやっぱり歴史に引っ張り込んだ一つの要因なんでしょうね。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
1930年(昭和5年)4月 22歳
比叡山延暦寺史編纂専任助手嘱託
「辻先生の助手でね、史料編纂所へ通って、叡山関係の材料を整理していたんです。」「毎週毎週、いろんな本が入ってきますからね。先生と私と2人でしょう。だから随分勝手な本を読めたことはよめたな」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
三千院の阿弥陀堂内で文書の整理をしたことがあったが、その頃は観光客はまったくいなかったと述懐し、阿弥陀堂の脇にある茶室が好きだと、来訪の折りに語られた
1932年(昭和7年)4月1日 23歳
初めての論考「天台宗教団成立に関する二三の考察」『研究評論歴史教育』7-1・歴史教育研究会を刊行した
1936年(昭和11年)6月 27歳
東京帝国大学史料編纂業務嘱託
1941年(昭和16年)5月 33歳
東京帝国大学史料編纂官補
1942年(昭和17年)4月 34歳
東京女子基督教青年会駿河台女学院 講師
著者は日本文化史を担当し、羽仁五郎が世界文化史を担当した。
「一番最初はYWCAに駿河台女学院という、2年間の学校がありまして、そこで羽仁さんが世界文化史だったかな、僕が日本文化史をやったんです。それが僕が教師をした一番最初です。今も変わっていないかな、海軍に接収されるまで、一年半ぐらいかな、そこで日本文化史なるものをしゃべらされたのが教師の初めなんです。大きな講堂みたいなところで、「聞こえませーん」と言われて、そっちにしゃべると、こっちが聞こえなくなる。あれには参ったけど。(笑)」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
1942年(昭和17年)10月 34歳
立教大学講師
1943年(昭和18年)4月 35歳
第一高等学校講師
1944年(昭和19年)8月 36歳
東京大学史料編纂所史料の疎開が始まり、著者もその任務に係わる。『東京大学百年史』「部局史四」東京大学・1987年に拠る
昭和19年8月1日に東京都世田谷区の静嘉堂文庫へ第一回の蔵書疎開が行われ、この年さらに長野県および山梨県への疎開が続いた
1944年(昭和19年)36歳
歴史学研究会から刊行されていた『歴史学研究』の継続的な発行が困難となる中、
著者の自宅で編集会議が行われたことがあったことを、著者は「そんなこともあったね」と追懐した
1945年(昭和20年)8月9日 37歳
敬愛した戸坂潤の逝去に接する
著者は『戸坂潤全集』勁草書房・1966年に触れて、京都に戸坂潤宅を訪れた日々を楽しそうに述懐したことがあった
1945年(昭和20年)5月 37歳
東京大学史料編纂所史料および所員の長野県への疎開が始まる。『東京大学百年史』「部局史四」に拠る
著者も所員の一人としてその任に当たり、第一高等学校の講師も兼務していたため、東京と長野を幾度も往復した
途中、東京ではあまり見かけない便追(びんずい)の啼き声を幾度か聞いている
「本を疎開させなきゃいかんということで、上田の在に蔵がありましたので、そこへ本を疎開させたんです。」「とにかく半年ばかり汽車に乗って通いました。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
1945年(昭和20年)10月 37歳
第一高等学校講師
東京女子大学講師
受講生の一人であった中沢真知子は、卒業後に文化史懇談会の会員となり、記録係として会報の記事の執筆にもあたった。『文化史懇談会』No. 18・1952年およびNo.32・1955年
講師であった著者が「白い素敵な背広を着ていらした」と中沢が追想したとき、川崎夫人は「あれは海軍の制服を仕立て直したものでした」と当時のことを話された
中沢は後年、1953年以後著者の書作を「読み進めることをはじめた」網野善彦と結婚する。「私にとっての「古典」川崎庸之氏の著作」石井進編『歴史家の読書案内』吉川弘文館・1998年
著者が姓だけで呼んだのは、たぶん網野善彦と高校・大学時代の同級で友人であり小説家となった高見順だけであったとおもわれる
1946年(昭和21年)1月 38歳
日本女子大学講師
1946年(昭和21年)夏纂所 38歳
長野県へ疎開していた、史料編纂所のすべての史料がこの夏までに史料編纂所に復帰した。『東京大学百年史』「部局史四」および史料編纂所図書室の調査に拠る
1948年(昭和23年)4月5日 40歳
「いわゆる鎌倉時代の宗教改革について」『歴史評論』15・歴史評論社
戦災により焼失した卒業論文を、題目を少しく変更し、新たな見解を踏まえて刊行した
本論考に1953年以後に接した網野善彦は、「(教行信証の古典性を述べた)文章に接したときの感動はいまも忘れることができない」と記した。「私にとっての「古典」川崎庸之氏の著作」に拠る
この頃から、親鸞の研究および服部之総が中心となった日本近代史研究会の活動等によって、服部之総との交流を深める
「服部之総、あの人が画報をやっていたんですよ。日本近代史だったか、図説日本史か、画報をやっていて、いろんな人がそこに集まっていたわけです。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
随想「先生みたいな学生さん」『青村真明遺稿集』青村真明遺稿集刊行会・1954年に当時の状況の一端が記されている
当時稀覯書であった親鸞の妻恵信尼の文書をまとめた冊子を、著者が服部之総に貸与し、服部が記した備忘の用紙がその冊子に挟まれたまま返却されて、現存する
1951年(昭和26年)4月 43歳
東京大学教養学部講師
1952年(昭和27年)1月1日 43歳
「文化史懇談会の生いたち」『文化史懇談会』No.1を執筆
文化史懇談会は、東京国立博物館等に集った歴史学および美術史学の研究に携わった人達によって自然に広がりができ、会として成立するようになったと
語ってくださったことがある、著者はその一人として会の設立に尽力した
「これはもともと東京博物館の諸君が何か一緒にやりませんかと、吉澤忠君が一番最初に言ってきたんです。」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
同会には、後年和光大学で同僚となる、近藤忠義、武者小路穣も、著者とともに会員であった、「文化史懇談会会員名簿」1952年9月に拠る
5月27日 44際
「国民文化創造の可能性」『伝統芸術』No. 7を執筆
6月23日
座談会「歌舞伎をみて(一)」『伝統芸術』No. 8に参加
12月1日
「文化史懇談会 一年のあゆみ」『文化史懇談会』No.12を執筆
1953年(昭和28年) 45歳
1月1日
「林屋辰三郎氏の「継体、欽明朝内乱の史的分析」」 『文化史懇談会』No.13を執筆
林屋辰三郎は後年1982年に『川崎庸之著作選集』が刊行されたとき、第3巻『平安の文化と歴史』の外函の推薦の帯文に「東京に花開いた文化史学」と題して、永い友情を示された
2月20日
『伝統芸術』No. 18の「新たな組織で発足」に、著者は伝統芸術の会の研究企画委員会および事業委員会の委員となったとの記載がある
同会には、後年和光大学で同僚となる、荒木繁、池田廣司、近藤忠義、宮川寅雄、武者小路穣等も参加していた
1954年(昭和29年)46歳
1941年(昭和16年)より中断されていた史料編纂所による正倉院文書の調査が、この年より再開し著者もその任務に係わる
『東京大学史料編纂所報』第1号・1967年、第2号・1968年、第3号・1969年に「正倉院出張報告」の表題で、川崎庸之・土田直鎮・皆川完一が、毎年その任に係わったことが記されている
1954年(昭和29年)4月 46歳
東京大学教授(史料編纂所)
1957年(昭和32年)12月 49歳
東北大学文学部講師
1959年(昭和34年)6月 51歳
東京大学史料編纂所長事務代理
1961年(昭和36年)12月 53歳
『朝日新聞』1961年12月5日夕刊に、「津左右吉博士をいたむ」を寄稿する
新聞への寄稿はこの一度だけであったとおもわれる
1966年(昭和41年)4月 58歳
立教大学大学院講師
1967年(昭和42年)8月 59歳
東京大学史料編纂所長事務代理
1968年(昭和43年)4月 60歳
東京大学教授(史料編纂所)定年退官
和光大学人文学部教授
1969年(昭和44年)3月 61歳
「正倉院文書にあらわれたる尼公・大尼公・小尼公の呼称について」
東京大学史料編纂所で発表した最後の論考。『東京大学史料編纂所報』第3号・1969年に所収
1969年(昭和44年)10月 61歳
和光大学人文学部文学科長
1971年(昭和46年)7月 63歳
和光大学人文学部長代理
1971年(昭和46年)10月 63歳
和光大学人文学部長
1975年(昭和50年)3月 67歳
『日本思想体系 五・空海』を岩波書店より上梓する
本書の執筆を依頼されたとき、畏友である仏教学者渡辺照宏に電話し、「注は専門的にならず、わかりやすく書くのがよい」との助言を得て、執筆することを決めたと述懐している。渡辺照宏との交流はほぼ半世紀に近く、資料編纂所では渡辺との長電話が有名であった。「渡辺照宏君の電話」『 渡辺照宏著作集 月報五』筑摩書房・1982年を参照されたい
1977年(昭和52年)12月 69歳
著者を含む研究者の多くが集った新宿の「あづま」への思いを綴った『新宿あづま』が刊行され、著者も「あづまと私」を寄稿した。
店の奥の定位置での姿は、「静かなること林の如し」と形容された。「あづまと私」『新宿あづま』新宿あづまの会・1977年、『新宿歌舞伎町物語』木村勝美・潮出版社・1986年に拠る
1982年(昭和57年)3月10日 74歳
「天平年間における伝戒師僧の招聘について(補論)」『人文学部紀要』16・和光大学人文学部
刊行された最後の論考となる
「川崎庸之名誉教授インタビュー」において、インタビューアの一人、山本吉左右が「「「天平年間における伝戒師僧の招聘について」という、和光大学の『人文学部紀要』に載った論文ですが、小さな問題のように見えながら、その時代の地平みたいなものがあらわれてくる。それから、言葉の一つ一つを大切にしながら読み直しなさっているという気がするんですけれど」と述べたのに対して、著者は「それは上山春平君に刺激されて。」と応じている。「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
1982年(昭和57年)8月25日 74歳
「渡辺照宏君の電話」『渡辺照宏著作集 月報五』筑摩書房
刊行された最後の随想となる
1982年(昭和57年)2月16日 74歳
和光大学人文学部文学科の著者の演習「平安文学と仏教」の受講者と奈良・京都を旅する
奈良の法輪寺に向かう道で、「ここに来るのは50年ぶりかな」と述懐された
2月17日
京都の智積院において、長谷川等伯の楓図を見、「すさましいね」と評する
著者は第一高等学校在学中、当時障壁画の研究に携わっていた大類伸に従い、智積院を訪れている
「僕が一高に入った最初の年にね、大類先生が一高の学生を連れて、京都、奈良を先生の案内で、襖絵研究の旅をした。一高の史談会というのがあって、そこに大類先生が来てしゃべってくれていたんですけれども、史談会の連中と一緒について来いということで、結局、先生の後をついて、京都のお寺の襖絵をひととおり見てまわったんです」「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部・1996年
同日、京都日野の法界寺を訪れ、阿弥陀堂内陣上部の飛天に接したとき、「欣求浄土だね」としずかに語られた
1982年(昭和57年)10月29日 74歳
『記紀万葉の世界 川崎庸之歴史著作選集 第1巻』東京大学出版会 函帯文 西郷信綱 表題「 」
編集・解説 笹山晴生
11月15日
『日本仏教の展開 川崎庸之歴史著作選集 第2巻』東京大学出版会 函帯文 佐藤進一 表題「考える歴史を求める人びとに」
編集・解説 大隅和雄
11月25日
『平安の文化と歴史 川崎庸之歴史著作選集 第3巻』東京大学出版会 函帯文 林屋辰三郎 表題「東京に花開いた文化史学」
編集・解説 網野善彦
第3巻巻末に笠松宏至の「本著作選集に添えて」が記されている
刊行にあたっては、東京大学出版会から渡邊勲が参加
著者が著作選集を論考の最終形態とするために、戦前の論考に見られる敬称の一部の表記を改めたため、著作選集の本文には初出の刊本とは異なる字句が存在する
『著作選集』の広告は、後日、大学同期の畏友で元東京大学史料編纂所長の竹内理三の『鎌倉遺文』と並んで朝日新聞朝刊の同日の書籍広告の欄に掲載され、著者はこの偶然を喜ばれた
1985年(昭和60年)5月8日
和光大学での演習は「平安文学と仏教」の主題で行われてきた。この日演習終了後、新しく演習に加わった3年生の歓迎会が町田市の丘の上の食事処で行われた。演習に参加していた研究生が、即興的に「ゼミの歌です」と述べて「琵琶湖周遊の歌」を歌い、「仏の御手にいだかれて、ねむれ乙女子やすらけく」を聴かれると、「これはいい」と喜ばれ、次いでみずから一高の寮歌を声低く歌われ、みな静かに聴き入った。庭には藤の花が夕暮れの中で満開であった。
1988年(昭和63年)3月 80歳
和光大学教授退職
和光大学名誉教授
1996年(平成8年)3月31日 88歳
「川崎庸之名誉教授インタビュー」『人文学部紀要』30・和光大学人文学部
インタビューアは文学科の山本吉左右と人間関係学科の永澤峻であった。
山本の「和光はどうでしたか。」の問いに対して、著者は「和光のゼミが一番思い出に残るな。一番、和光の感じがしてね。」と応えておられる。山本の「紀要に一言何かおっしゃっていただいて」のことばを受けて、「僕はとにかく和光のよさというのは、何ということなしに、安心してものの言える雰囲気がありますね。これはちょっとよそではないことじゃないか。私のゼミに来てくれた学生諸君がそうだったかもしれないけれども、とにかく楽しかったという印象が非常に強いです。」
山本の「戦後の民主化の中で」感じられたことはに対しては、「向坂逸郎という人がいるでしょう。あの人は、大体僕らの年代の諸君を何人かあつめて、マルキシズムの古典をずっと読んでくれたんです。行ってみたら、林健太郎君とか、いろんなジャンルの人がいて、経済学の関係では大内力君とかもいて、とにかく10 人から20人位いて、そこへ山川均さんが出て来たり、山川菊栄さんが出てきたり、マルクスの古典を片っ端からおさらいしてくれたんです。それが僕にはいまだにありがたかったと思うんです。確かに労農派の諸君ですよね。大内兵衛先生も来ましたし、そういう意識が一つあったな。」
このインタビューは「和光大学創立30周年記念特別企画」の一環として、「武者小路穣名誉教授インタビュー」とともに掲載された
著者と武者小路穣は文化史懇談会の会員であった。「文化史懇談会会員名簿」1952年9月に拠る
1996年(平成8年)11月3日 88歳
逝去
享年88歳
病室で奈良国立博物館の正倉院展のテレビ放送を奥様とともに視聴した。『日曜美術館』「正倉院展 天平の名宝」NHK アーカイブス・NHKクロニクル・アナログ教育・1996年11月03日
正倉院は著者がもっとも愛されたもののひとつであった
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