Friday, 21 March 2025

Letter to a friend. February 2024

 謹啓


川崎庸之について、友人に送った手紙がGmailに残っておりましたので、
ご送付申し上げます。

先生の万葉集の引用のすごさに接したことが中心ですが、
手紙の中にもありますが、
私が歴史から完全に離れ、もとの言語へと帰ってゆく契機となったことが記されています。


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手紙の一部です。
青字も、もとのままです。



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和光大学の講義と演習が終わり学生さんたちも帰ったあと、
静かになった研究室で、先生と相対でお話するときは、
私にはかけがえのないひと時でした。

会話は講義や演習から離れて、広い話題に及びました。
旧制一高のこと、大学での研究、卒業後に係わった比叡山のことなど多岐に渡りました。
殊に先生は哲学や近代仏教学を先導したサンスクリット、チベット、パーリ等の諸語を切り開いた諸先学に、
深い敬意を表していました。
そうした最後に先生が時折、述べられたのは、
「私は所与のことをしてきただけだから」ということばでした。

私には、先生が「所与のこと」ということばで、私に何を伝えようとしたかは、わかりませんでした。
一般には謙遜のことばとして受け取られますが、私は先生に尋ねることはしませんでした。
先生が私のそうした問いに、より詳しく話されることがほとんどないことを知っておりました。

1982年夏、東大出版会から刊行される全三巻の歴史著作選集の編集がほぼ終わり校正の段階になったとき、
著者、選集の各編集の先生、出版会がその作業に係わりましたが、
年譜と著作目録に私が係わりました関係から、併せて選集全体の本文の校正も行うことを出版会から頼まれました

丁度大学はすでに夏休みとなり、私の夜の定時制の勤務もほぼ終了していましたので、
7月から9月初めまで、私はひたすら全三巻の本文校正に従事しました。
こうした本格的で責任のある校正作業は初めてでした。
本当の校正の方法は知りませんでしたので、私は本文と組版を何度も行き来しながら、作業にあたりました。

そしてこのとき、非才な私にはそれまで全く見えていなかった、歴史をひたむきに生きた人々の姿が、先生の論考の一文一文から浮かび上がりました。
先生は絶妙な位置に絶妙な一首を引用していたのです。
今回の論集からは除外されていますが、古代文学と歴史との係わりを扱った選集第一巻を精読すると、
万葉集に一首か数首しか掲載されていない歌人の、たった一首が先生の論考の叙述の中に置かれると、まるでその歌人の全生涯が通観されるかのように浮かび上がってきたのです
その歌人や和歌のどのような解説よりも、その歌人の経てきた深く広い世界がたった31文字の歌そのものから、浮かび上がってきたのです。
先生はただその一首を論考のある位置に引用しただけなのです。
先生はまさしく所与のことをしてきただけ」だったのです。

しかし私はこの邂逅を通して、
結果的に歴史から去って行くこととなりました。
私にとって、先生の世界は隔絶していました。
私はこれ以後、私本来の主題であった言語の世界に、帰って行くことになります
途は以後、長く遠く折れ曲がっていましたが。

先生の論考が、私自身のこの世界でのありようを、かすかにながら示してくださったのです。
私もまた、私自身の所与のことを、なさねばならないと思ったのです。
言語そのものを所与のこととして。


2024年2月11日


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謹白



TANAKA Akio
18 March 2025

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